征韓論を巡って明治6年政変、西南戦争へ向かって行く明治初期とアジア主義
2024-09-23 カテゴリー:近代化クリック応援よろしくお願いします。
征韓論として表面化したアジア主義
明治期に掲げられたアジア主義は、どこから始まったのでしょうか。アジア主義は当初、吉田松陰が唱えた、アジア連合の形成によって、西洋列強と対抗するという壮大な発想から生まれています。映画の、ラストサムライの題材になったとされる、西南戦争が、実はこのアジア主義と関係しています。西南戦争によって、維新の立役者であった西郷隆盛は自決することになります。アジア主義は政治的には、征韓論という形で表面化しました。当初は鎖国を続ける朝鮮半島を開国させ、交易を行うという目的でしたが、これに対して李氏朝鮮は、江戸幕府のことは知っているが、天皇を擁する日本など知らぬと、明治政府が提示した書式が徳川のものと違うと言い、要求を拒みました。
格上の天皇を拒む朝鮮
これは、当時李氏朝鮮は、清の属国という立場で、清の皇帝に対する王を名乗っていましたが、天皇は皇帝と同格となるので、朝鮮は王で、日本は天皇である前提の、国交関係というものが、どうしても納得が出来なかったからと言われています。現在の韓国が、日本の天皇のことを日王と呼ぶ発想はこの時から変わっていないのですが、現在はその歴史的経緯は全く韓国人は知らないようです。これは韓国の新聞ですら日王という単語を使ったりするので、驚きです。中国ですら天皇と正式に呼びますし、王室を擁する欧州諸国も当然エンペラーの称号を認めています。そのような意味では韓国はやはり特殊な考え方を持っているようです。
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岩倉使節団
この交渉の中で、李氏朝鮮に無礼があったということで、当時士族の中で主戦論が高まってくることとなり、武力によって朝鮮を開国させようという意見が多くなります。主にこれら朝鮮半島を武力によって開国させようと考えたのが、薩摩藩の士族らです。明治政府はその時、岩倉使節団と呼ばれる一行を編成し、アメリカ、ヨーロッパに向学の為に渡航していました。その人数は留学生を含めて107名にも上ります。アメリカで8ヶ月滞在し、ヨーロッパでの訪問国は、イギリス、フランス、ベルギー、オランダ、ドイツ、ロシアなど12か国に上り、1年以上も滞在しています。この間、約1年10ヶ月ほど、日本政府の要人は日本を離れていたということです。
留守政府
この時に政府の留守を預かっていたのが、留守政府です。この臨時政府は、太政大臣の三条実美を筆頭に、西郷隆盛、井上馨、大隈重信、板垣退助、江藤新平、大木喬任といったメンバーで編成されます。この岩倉ら使節団が、日本を留守にしている間に沸き上がったのが、征韓論です。薩摩は、明治改革の中で武士にこれまで与えられていた特権が、次々と失われ、平民化していくことに反対の意を唱え、長州と対立することが多くありました。伊藤博文は、薩摩も世界を知る必要があると考え、岩倉使節団に薩摩の大久保利通を迎え入れました。実際のところ、征韓論とは役割を失った、かつての武士が、あらたな役割として、朝鮮半島への武力行使を行うという、側面が在ったという見方も多く、実際のところ、近代化の恩恵も立地的には薩摩は、遠い場所にありました。これまで武士として俸給を受け取っていた士族らも、新しく仕事をしなければなりません。
戦争をしたかった薩摩
この武力行使による主戦論に対して、薩摩士族のトップであった西郷隆盛は、突然武力行使をすることには反対し、これをなだめ、自分が交渉人として朝鮮に赴き、開国を説得するという主張を貫き、留守政府のままこの決定がなされます。しかしこれは、西郷に何らかの危害が及ぶことがあれば、日本は戦争を余儀なくされるというものでもありました。そこへ明治6年の9月に岩倉使節団のイッコウが帰国して来ます。そこでこの計画を知った岩倉らは驚いたという流れです。岩倉や伊藤博文は、世界を見て来た中で、今は他国と争いをする時ではなく、国内の近代化に集中するべきだという考え方であり、薩摩の大久保もこれに賛同しました。実際のところ、明治6年ですから、それまで日本は、まげを結い、日本刀を携えていた時代が開けてから、まだ6年です。西洋との近代化の左は歴然としており、岩倉らはその目で目の当たりにして来た訳です。そして、戊辰戦争が終わったのが明治2年。つまり僅か4年後に、戦になるかもしれない行動をしようと考えていたことになります。
明治天皇の聖断
議論は紛糾し、一切出口が無い状態となりました。留守政府としては結論に達しており、天皇の裁可を待つのみとなっていました。そこで、太政大臣の三条実美が心労の為、倒れます。そこで伊藤が機転を利かせ、岩倉を太政大臣に据えることに成功し、さらには明治天皇への聖断を仰ぐ要望を届けます。結果的には、明治天皇による聖断により、征韓論は阻止されることとなります。これを以て、西郷隆盛は辞表を提出します。なんとこれを受けて、政府官僚、軍人を合わせて600人もの薩摩の士族らが辞任することとなります。この事件により、維新の立役者であった薩摩藩はその舞台から降りる事となり、結果的には西南戦争へと向かって行くことになるのです。
世界の中で考えた明治の志士
これらの流れは、大きな枠組みとしてはアジア主義、つまりアジア連合の構築を目的とした、方法論についての対立でした。留守政府は、手始めに朝鮮の開国、次には清との交渉を考えていたようです。明治天皇の聖断はとても重く、その後の明治政府のアジア外交についても基本となります。朝鮮の開国後も、主戦論ではなく、日本は明治期の近代化を周辺諸国に啓蒙して行くことで、アジア連合を作ろうと試みます。
世界が分轄され続けた時代
このアジア主義というものについては、西洋ではドイツを中心に汎ゲルマン主義が掲げられ、これに対抗してロシアを中心とした汎スラブ主義、そしてアメリカを中心とした汎アメリカ主義があります。実際のところ、世界は植民地政策により完全に分割されようとしており、日本もいずれかのグループにより植民地として編入される可能性が高く、だからこそ明治維新が起こり、その後の近代化を急いだという背景があります。その中で、日本が日本1国で自国を守ることができる訳が無く、そこでアジア主義となる訳です。
実際には欧州はゲルマン、東欧はスラブ、アメリカ大陸はアメリカ、アジアは日本により4つに分割するという案まで在った時代のお話です。この西南戦争を持って、日本における最後の内戦となり、侍、士族としての最後の戦いとなります。正にラスト・サムライということになるのでしょうか。その後日本は近代化を着々と進め、富国強兵政策によって国力を蓄えます。その後、朝鮮や中国の近代化に向けて様々な協力を行いますが、西洋列強の進出はそれよりも早く、朝鮮はそもそも近代化のチャンスを自ら失い、ロシア利権に浸食されて行きます。