明治維新の成果をアジアに広げることで日本の防衛に繋がると考えた明治期の知識人
2024-09-15 カテゴリー:日本クリック応援よろしくお願いします。
アジア主義を掲げた知識人
明治維新によって侍の時代が終わったことをご存じかと思います。明治維新は日本国内の近代化の扉を開きました。それではこの維新というものは日本だけのものだったのでしょうか。福沢諭吉、犬養毅、宮崎滔天、頭山満ら知識人がいました。これらの人々に共通する部分はアジア主義という考え方を掲げた明治期の思想家、革命家です彼らは同時代に活躍し互いに連携し近隣諸国に関わりを持っています。これらの人たちが関わった時代について学校で詳しく教わることはないのではないでしょうか。この日清戦争前の日本の動きを知れば大東亜戦争まで脈々とつながる日本の意思や世界観が明確になってきます。歴史を見れば日本の考えは一貫しており突然戦争を始めた訳ではないことが理解できるでしょう。
アジア主義とは
彼らが掲げたアジア主義とは何でしょうか。これは西洋列強の植民地主義を押し返しべくアジア諸国が独立自衛を行い互いに協力し合い国力を高めることを意味します。明治維新とは一つの側面としては西洋化政策です。西洋の産業革命、市民革命、立憲主義の導入を一時期に行うという世界史上稀に見る大改革を当時の日本人はやってのけました
それがその後に西洋化から反転してアジア主義というアジアに主眼を持った考え方が生まれてきたということですこの考え方はまず日本の隣国にあたる朝鮮や中国に向けられます。
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朝鮮革命の失敗
日本は封建制からの脱却に成功し近代化の道をまっしぐらに進んで発展していましたが朝鮮や当時の清は旧来と変わらない王朝国家であり民衆は封建領主に縛られた社会を変わらず維持してきました。何百年も維持されてきたこれら体制の中で根を張った既得権益というものを覆すのは容易ではありません。朝鮮の金玉均は朝鮮の旧体制を打破して近代化を目指す革命家でした。当時アジアでは日本のみが近代化に成功していましたが彼は日本型近代化を参考にし旧来から李氏朝鮮にはびこっていた奴婢制度身分制度を廃止しようと甲申政変を試みますがこれは反対勢力によって簡単に潰されてしまいます。その後、身の危険から日本に亡命してきます。
三和主義
これと親交を深めたのが福沢諭吉や犬養毅、宮崎滔天や頭山満らとなります。当初はクーデターに失敗して亡命してきた金玉均については厄介な客人と捉えられていましたが、彼が唱える「三和主義」という考え方がこれら明治期の日本の思想家らと共通したのです。三和主義とはまさに朝鮮中国が近代化し独立し互いに協力し合い西洋列強を退けるという考え方でした。これらの近隣諸国の近代化を明治期の日本は模索するようになっており清は大国であるのでまずは朝鮮の閔妃とアクセスし朝鮮軍の近代化に向けた取り組みとして日本が協力することになりますがこれも旧体制派からの反動で失敗します。これが壬午軍乱です。
転機となった壬午軍乱
壬午軍乱を収束させるために閔妃は清の袁世凱に援軍を要請したため逆にその後、清の言いなりにならざるを得なくなり日本型近代化を目指すグループがそこから分裂しそれら金玉均が率いる一派がクーデターを実行しこれも旧体制派と袁世凱の率いる清軍によって潰されたという流れとなっています。
脱亜論
金玉均の東京での住居は犬養の要請から宮崎らが支援したとも言われており頭山満は神戸の西村旅館で金玉均と会い支援のため当時の金で五百円現在価値では一千万円を手渡したと言われています。福沢はアジア主義とは打って変わって脱亜論という社説を時事日報に投稿します。これは匿名投稿であったものの福沢によるものと考えられています。内容としては朝鮮や中国は世界の情勢を何度説明しても理解できず過去からの因習から抜け出ることがないと痛烈に批判しこれら国々との関係を断つべきであるという考え方です。アジア主義は「脱欧入亜」と言われつまり欧州から脱してアジアとしての立場を発展させる意味ですが福沢は反転して「脱亜入欧」を唱えたわけです。金玉均は日清戦争の僅か4カ月前に上海で暗殺されてしまいます。
孫文の革命
孫文は日清戦争の後に打倒清王朝の暴動である広州蜂起を企てますが密告のために失敗し日本に亡命してきます。まさに金玉均と入れ替わりのように日本に避難してきたということですこの孫文を受け入れ支援したのが宮崎滔天や頭山満でした。そして孫文の住居も犬養毅が斡旋します。そして1905年には日本人の大月薫と結婚しています。福沢については実は1902年に亡くなっており朝鮮の独立の7年後、辛亥革命の10年前となります。中国の辛亥革命は実は日本の宮崎や頭山、犬養らの支援によって行われた革命でした。後に孫文は「日本の維新は中国革命の原因であり中国革命は日本の維新の結果であり両者は元々一つにつながって東亜の復興を達成する」と発言しています。さてここまでの話は単に日本から見た一方的な歴史解釈でしょうか
維新の伝播によりアジアが改革された
これは中華民国を建国した孫文の言葉となっていますし朝鮮の近代化のためには李氏朝鮮を転覆させなければならないと考えたのは朝鮮人である金玉均なのです。このように明治の知識人らは何を考えどのようにアジアに関わっているかを見た場合狂ったように日本が攻めてきたというような話ではなく敵はイギリスでありオランダでありフランスでありスペインの植民地政策です。これらに日本一国だけで勝てるとは思っておらずだからこそ日本が成功した維新、近代化をアジアに広げアジア各国が国力を持ち協力し合うことで西洋の植民地政策を押し戻そうと考えていたわけです。そしてこのことを結局最後まで理解できなかった。そして今でも理解できないのが残念ながら半島であり孫文亡き後の中国となっています。この意味では福沢は本質を見抜いていたのかもしれません。