江戸時代初頭にベトナム王女と結婚した荒木宗太郎|ベトナムのグエン朝時代
2024-09-04 カテゴリー:アジアPhoto by SPIDER (licensed under sky-spider.com)
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ベトナム王女と結婚した日本人
画像はベトナムのホイアンという世界遺産にある、日本人が作った日本橋の写真です。新婚カップルが記念撮影をしていますね。この場所は夜にはランタン祭りが行われ幻想的な雰囲気となり、結婚式などでも人気の場所のようです。
日本の鎖国前、ベトナムのホイアンに日本人町が形成され、ベトナムグエン朝の王女と、日本人商人が結婚をして、日本に移住していたという話をご存じですか?日本橋は、日本の鎖国前にベトナムのダナンで作られた、日本人町の、日本人が作った橋であり、ホイアンの代表的な建造物となっています。橋の片側に、日本人町があり、逆側に中国人町が在ったと言われています。当時の日本人の建築技術がとてつもなく高かったことが分かるでしょう。ホイアンは、ダナン市の南約 30 km 、ベトナムのクアンナム省の海岸の平野、トゥボン川の下流に位置する、古代都市地域です。1999 年ユネスコは、ホイアンの古都を世界遺産として認定しました。
東南アジア貿易の当初の目的
1567 年、中国の明王朝は鎖国政策をやめ、東南アジア諸国と貿易するために、商船が海を渡ることを許可しましたが、依然として一部の重要な原材料の、日本への輸出を禁止していました。これにより、豊臣幕府とその後の徳川幕府は、東南アジアとの貿易関係を拡大し、それらの国々から中国の物産を買い入れるために、インド商船の運航を許可することになりました。インド船は、徳川幕府下の 1604 年から輸出を開始し、鎖国政策が発表された 1635 年まで、少なくとも 356 隻のインド船が存在したと言われています。これらの船も、ベトナムのホイアンなどの港を経由します。
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立ち並んだ日本家屋
ホイアンに、日本人町が形成され、17 世紀初頭に朱印船貿易の活発化に伴い、大きく繁栄しました。チャヤ・シンロクの「ジャオ・チー・クオック・チエウ」の絵を通して、木造 2 階建て 3 階建ての日本の街並みを見ることができます。オランダ人船長の、デルフト・ヘイブンは、1651年に当時のホイアンには川岸に沿って,約60軒の日本家屋があり、火災を避けるために、石で建てられた家々が互いに近くに建っていたと記録しています。
Chaya Shinroku (licenced under CC0 1.0)
明崩壊後に流れ込んだ中国商人
当初、中国人は貿易に来るだけでした。ホイアンにとどまらずに戻っていく場合が多く、中国人町も大きく人口が増えることはありませんでした。しかし、ミン王朝の崩壊後は、ミン王朝の臣下、逃げて来た市民ら、多くの中国人が、中部ベトナムに移住し、多くのミン・フオン・サー・コミュニティ、中国人町を建設しました。ホイアンでは、多くの中国人が住むようになり、日本人に代わって貿易権力を掌握しました。ミンが清に滅ぼされるのが1644年ですから、日本が鎖国を行うのが1935年であり、その後、中国商人が流れ込み、その利権を持って行ったということでしょうか。
鎖国後も交易が続いたという説
日本船の出入りが許可された19カ所のうち6カ所で、この 6 つの住所に対応する、朱印状は、130 件あり、東南アジア諸国向け船舶に発行される、免許総数の約 40%に相当します。ホイアン向けの、朱印状指定貿易船の数は86隻で、ベトナム向けの貿易許可数のなんと66%を占めています。ノンヌオック寺の、ホア ギエム洞窟に石碑があります。この石碑は1640 年に作成されたと推測されています。石碑には、「日本人の、竹島茶屋、川上嘉平家、浅見弥助らが、青銅570トンを提供したとされています。これは、幕府が鎖国令を出した後も、まだ日本の商船がホイアンに来ていたのではないか?という説に繋がっています。その他にも、グエン・リュック時代(1688年)まで、グエン卿が貨幣を鋳造するために、銅を売るよう日本に求めていたという話からも説明されます。ホイアンに来航した日本商船の数は実際には朱印状の数を上回っていたという推測が成り立つということでしょうか。つまり、朱印船時代の公式統計よりも、ここでの日本人商人の貿易活動が、はるかに活発であったことを意味します。非公式貿易ということですね。
ベトナム妻を持った日本商人
インド船時代の日本の貿易船は、平均して約5000kgの商品を運んでいました。公式に知られている朱印状の数を考慮すると、30 年間にホイアン港に入港する、日本船の数は 86 隻、日本からの物資約 430 トンに相当します。石碑の情報では、この塔に富を寄付した 10 人の日本人のうち、間違いなく 5 人がベトナム人の妻を持っていたことを示しているとされます。商業貿易に加えて、日本の商人は幕府とグエン卿の間の、外交関係の発展にも、重要な役割を果たしました。両国には、正式な外交関係はありませんでしたが、幕府とグエン卿は両国を通じて、頻繁に手紙や贈り物を交換していたようです。手紙を通して、グエン卿は、常に日本からの貿易船は幕府によって送られるものと考えていたことがわかります。
日本商人を気に入ったグエン卿
グエン卿は、幕府に送った書簡に加えて、商人である本多上野介、茶屋四郎次郎に、直接手紙を書き、ホイアンで貿易を続けて欲しいという願いを表明しています。特に、日本の貿易商に対してグエン卿が好意を抱いていたことは、自分の娘を荒木宗太郎という日本人と結婚させたことにも示されています。グエン・フック・ゴック・ホアは、グエン卿の王女であり、ベトナムでは当然夫である、荒木の優秀なナビゲーターとなり、荒木が帰国した後、1年後に夫を追って長崎に移り住んでいます。そして長崎地方の商人の支援にも尽力したとされています。15年後に夫の荒木は亡くなりましたが、ゴック・ホアは、夫の会社で勤務し続け、簿記を担当し、1645 年に亡くなったとされ、長崎の大恩寺に埋葬 されました。2人の結婚が1620年とされ、荒木が無くなったのが1636年ですから、僅か16年間の結婚生活でした。この日本人とベトナム王女の結婚はベトナムでは有名な話なようです。日本でも、ゴック・ホアはアニオー姫と呼ばれ、親しまれ、長崎では、アニオー姫が、長崎入りするシーンを再現したお祭りがあったり、日越友好50周年記念では、アニオー姫と荒木宗太郎を題材とした、オペラ作品が公開されています。