北朝鮮崩壊の切っ掛けとなった第13回世界青年学生祭典|世襲型社会主義国家の最初の破壊的な躓き
2024-09-06 カテゴリー:北朝鮮Photo by Ulrich Bühler (licensed under CC BY-SA 4.0)
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危機的経済の北朝鮮
北朝鮮はいつからあそこまで危機的な経済状況になったのでしょうか。そのきっかけとなるイベントが行われていたことは日本ではあまり知られていません。北朝鮮(朝鮮民主主義人民共和国の建国は、1948年9月9日です。この日、北朝鮮の首都平壌で、朝鮮労働党を中心とした政権が、正式に樹立されました。北朝鮮の建国は、第二次世界大戦後の朝鮮半島の分割占領に端を発しています。1945年に日本が敗戦し、朝鮮半島はアメリカとソ連によって、北緯38度線を境に南北に分割されました。北部はソ連軍が占領し、南部はアメリカ軍が占領しました。
北朝鮮の建国
1948年8月15日には南側で大韓民国が成立しましたが、それに対抗する形で、9月9日に北側で朝鮮民主主義人民共和国が樹立されました。初代主席として金日成が就任し、彼の指導の下で国家が運営されました。北朝鮮の建国は、冷戦時代の東西対立の一環として、南北に分かれた朝鮮半島の緊張を象徴する出来事となり、その後も南北間の対立は続いています。
金日成の誕生
12年4月15日 に生まれています。朝鮮民主主義人民共和国の初代指導者であり、国家の創設者として知られています。日韓併合の2年後になりますね。金一家は白頭山血統と自称し、聖なる山から生まれた金日成という話にはなっていますが、実際には金日成の父親は半島南部の全羅道生まれとなっており、金日成自身も平壌西方にある万景台という場所で生まれているとされ、1912年と言えば、3.1独立運動が行われた年となっています。これは韓国では反日の象徴的な日とされ、これを契機に大韓民国臨時政府が上海で結成され、その中に、李承晩や金九らが居ます。この組織が後の大韓民国政府という流れですが、金日成はこの年に生まれたばかり、翌年には家族に連れられて、南満州に引っ越しています。そして金日成は中学校の時代にマルクス・レーニン主義に触れ、1932年、もしくわ33年に中国共産党に入党しています。ここから抗日パルチザン活動を行い、終戦間近にソ連の参戦にともない、満州地域の戦闘に参加し、その後北朝鮮に戻ることになります。
戻ると言っても実際に北朝鮮に居たのは生まれてから1年足らずで、実際は中国人であり、満州人であり、中国人の朝鮮族という位置づけになります。
主体思想とは
金日成は、現在においても北朝鮮憲法に掲げられている、主体思想を提唱します。主体思想とは、一つ目に、国家や個人は、他国や外部の勢力に依存せず、独立して行動しなければならないとし、
次に、経済においても外部の援助や依存を排除し、自国の資源や労働力を活用して経済を発展させるべきであるとする。
三つ目に、軍事面での自衛を重視し、外部からの侵略や干渉に対して自らを守るために、強力な軍事力を保持しなければならない。などとしています。
主体思想は、マルクス・レーニン主義とは異なる、独自の朝鮮式社会主義の基盤として位置付けられ、他国の社会主義や共産主義とは一線を画すものとして、北朝鮮の「独自性」を強調するために利用されてきました。北朝鮮は「主体思想」に基づく独自の社会主義を標榜しており、権力の世襲が行われています。権力の世襲が行われる社会主義国家は北朝鮮だけです。金日成から息子の金正日、そしてその息子の現在の金正恩へと権力が三代にわたって引き継がれ、事実上の「社会主義王朝」として運営されています。
スターリン批判
そもそも社会主義、共産主義は旧ソ連、レーニンによる革命から始まり、コミンテルンを母体として様々な共産主義者が誕生し、世界中に社会主義国家を建国して行きました。レーニンの死後、スターリンが権力を強め、個人崇拝の対象になっていたことを、後の第一書記となるフルシチョフが批判します。これが世界中の社会主義国家に動揺を与えた「スターリン批判」です。このことに中国は反発して、フルシチョフを修正主義者と批判します。ここから中ソ対立が表面化することになります。
一方で北朝鮮はまさに個人崇拝国家であり、中国ともソ連とも違う社会主義思想の国であり、マルクス・レーニン主義をさらに発展させたと言って、主体思想を位置付けていますが、実際は単なる個人崇拝の独裁国家であり、しかも最悪の世襲政治に過ぎません。
北朝鮮のターニングポイント
この北朝鮮は最初から現在のような世界最貧国という状態という訳ではありませんでした。暫くの間、韓国よりも豊だった時代もありますが、いつがターニングポイントとなったのでしょうか。決定的に北朝鮮が奈落の底に落ちていくイベントが開催されます。世界青年学生祭典は、第二次世界大戦後の1947年に始まり、冷戦時代の東西対立の中で特に影響力を持ちました。当初は、社会主義陣営の若者を中心に、反ファシズムや平和を訴える場として機能していました。
第13回世界青年学生祭典
北朝鮮経済が奈落の底に落ちたきっかけの一つに1989年に開催された、第13回世界青年学生祭典があります。1988年に韓国ソウルで五輪が開催されることに対抗して、北朝鮮も五輪開催に名乗りを上げますが、当時IOC会長のサマランチは平壌を視察し、北朝鮮開催はいずれの機会にとだけ伝えて帰国しました。世界青年学生祭典は社会主義国で行われるスポーツ・文化・芸術を含む祭典です。
初めての親子対立
金正日がこの祭典を自国開催するという提案に対して、父である金日成は経済状況を理由に断固反対の立場を崩さず、金正日は、韓国で五輪をやるのだから北朝鮮は世界青年学生祭典を必ずやるべきだと一歩も引かず、これは初めて親子が正面衝突した問題でした。結果的には金正日に権力が移行している途中の出来事であり、決定は息子である金正日側に傾きました。つまり北朝鮮で、第13回世界青年学生祭典を開催するということです。
そのような中で、大韓航空機爆破事件は1987年に起こりました。航空機を爆破した実行犯は「ソウルオリンピックの韓国単独開催と、参加申請を妨害するため、大韓航空機を爆破せよ」との指令により犯行に及んだテロ事件であり、このように韓国での五輪開催は、北朝鮮の面目を丸つぶしにするイベントだったことが分かるでしょう。
現在マスゲームや弾道ミサイルの展示行進などが行われていることでお馴染みの、メーデースタジアムはこの時建造された他、様々なホテルも建設され、他国からの来賓客を12,000人をも無料で招待しました。当時の北朝鮮のGNPの大半が投入され、開催された、莫大な国費を投入した祭典は、北朝鮮の財政をキキ的な状況にまで一気に追い込みました。なんと、このスポーツの祭典が、多数の餓死者を発生させました。
その後北朝鮮国内の配給がストップし、大量の餓死者が発生することになります。当時北朝鮮の外貨の60%~70%を獲得していたのは咸鏡南道という地域でした。まず最初に集団の餓死者を出したのが咸鏡南道の鉱山で働く人たちだったと言われています。つまり北朝鮮の経済の中核が完全に崩壊し、そこに携わる人々でさえ生活ができなくなるほどの、異常な政策だったのです。
権力世襲の瞬間に壊滅?
これは北朝鮮型、世襲型社会主義国家において、父親から息子へと権力が移譲されるその瞬間にすでに壊滅的な状態を引き起こしたということになります。ここから北朝鮮は、浮上出来ない深い奈落の底に転落して行くことになります。このスポーツの祭典から2年後にはソビエト連邦が崩壊します。つまりこれは東欧経済が破綻したことを意味していました。北朝鮮ではそこで1995年に水害が襲い、これが原因とした飢餓により、人口の10%から15%が亡くなったと言われています。これに対して金正日は、北朝鮮の人民が全員必要なのではなく、百万の党員がいればそれでよいと発言したと言われています。
経済危機に対して韓国側からは金大中が太陽政策という今となっては失敗とも言われる、経済支援政策を行いますが、これはこのスポーツの祭典が北朝鮮で開催されてから10年後1998年からスタートします。しかしこれらの大半を北朝鮮はミサイル開発や核開発に使っていきます。そして2006年には初めての核実験を決行し、同年ミサイル実験と核実験を受けて、国連制裁決議が安保理で採択されます。これによって北朝鮮は経済制裁を受ける形となり、韓国からの太陽政策も2008年を持って終了となります。
主体思想は単なる孤立主義に向かって行くだけの、金一家独裁政権をささえることで精いっぱいなようです。北朝鮮で開催された世界青年学生祭典は北朝鮮経済をキキテキ状況まで追いやり、軍事費削減の目的も在るのか、ミサイル、核開発に国費の大半をつぎ込んで、現在でも北朝鮮の民衆は貧しいままです。北朝鮮の時代は実際は、初代、金日成の時代にすでに終わっていると言えるかもしれません。