鎖国前にタイに広がった日本人町|警戒したアユタヤ王朝と山田長政|鎖国により断絶された国交
2024-08-31 カテゴリー:日本Photo by SPIDER (licensed under sky-spider.com)
クリック応援よろしくお願いします。
日本人町が在った世界遺産アユタヤ
日本とタイとの関係についてですが、かつてタイの、「アユタヤ」という場所に日本人町があったことをご存じですか?アユタヤは世界遺産で有名な場所で、バンコクからバスで1時間程度で行けますので、タイでバンコク旅行をされる場合は必ずといって良いほど推奨される観光スポットです。世界遺産に登録されているのは塔のような寺院群などですが、日本人にとっては、ちょっと不思議に感じる場所ですかね。
国を失った武士たちが移住
この日本人町が出来たのは、日本の戦国時代に破れた国々が主君を失ったりで職を失い、移住してきたという理由が多いようですが、それにしても当時の日本人の行動力には唖然とするスケール感があります。江戸時代に入り、1600年代初頭の人口は8000人とも言われ、当時の日本の人口が1200万人とすれば、いかに多いかが分かるでしょう。現在日本の人口が1億2千5百万人として、タイに在住する日本人が、2023年で、7万2千人ですから、現在よりも人口比で高いことになります。しかも現在は勿論就労ビザでの滞在ですので、現地就業先が確保された状態でタイに来ている人という前提となり、日本人町が形成された当時はそんなものは当然ありませんよね。
頭領となった山田長政
この町の住民で、名が知られているのが、山田長政という人物で、日本人町の頭領となり、中心的な人物となります。日本からやって来た人々の多くが脱藩浪人の武士であり、武芸に秀でていたこともあり、アユタヤ軍に協力して諸外国勢力と戦います。実際にタイを植民地にしようとやって来たスペイン軍を、二度に渡り、撃退し、アユタヤ王朝のソンタム国王に信頼され、日本人傭兵隊は、クロム・アーサーイープンと名付けられ、責任者の第三位である、オークヤーという官位を、授けられたとしています。
■Youtubeイイネ協力よろしくお願いします
朱印船貿易と日本人町
徳川家康は当初外国との貿易にはとても興味があり、朱印状を幕府が発行して保護する、朱印船制度を導入します。オランダの造船技師などを招いて船を作るなど、とても熱心でした。この貿易は、朱印船貿易と呼ばれ、東南アジアに広がり、現在のフィリピン、ベトナム、ラオス、カンボジア、タイなど、広範囲で貿易が行われました。このような、自国である日本の政策から、早くからタイに拠点を築いていた日本人町にとっては好条件となり、大きく発展することになります。日本人町の人々が貿易をするために、巨大な貿易港が建設され、その貿易額はその他諸外国の合計を上回る規模だったとされます。
日本人町を警戒したアユタヤ王朝
これらのことから、次第にアユタヤ王朝は日本人町を警戒するようになったと言われます。それもそのはずで、武力に秀でていて、更に財力を蓄積拡大して行けば、一つの国のように発展しかねないほどの潜在能力を秘めているということにもなります。1629年、プラーサートトーン国王は、日本人勢力を牽制するために、貿易を王室のみに許可する、専制貿易を行います。
その後山田長政は、1630年にパタニ軍との戦闘中に脚を負傷し、傷口に、毒入りの膏薬を塗られて死亡してしまいます。パタニとは、現在のマレーシアのイスラム勢力であり、現在もタイの南部マレーシア近くに、パッターニ県が存在します。そして日本人町は、王室に対する、謀反の恐れありとして焼き払われ、無残にも町民らは虐殺されてしまうことになります。
鎖国に踏み切った幕府
この時代は東南アジアでは様々な王朝が紛争を繰り広げており、日本からの朱印船が巻き込まれる事件も多発しました。その他、キリシタンが朱印船を使い日本に渡航しキリスト教を布教しようとしていたり、逆に日本人が奴隷として西洋に売られるような問題も発生します。結果的に、徳川家康は、1635年の第三次鎖国令によりこの朱印船貿易を廃止し、日本人の、東南アジア方面への海外渡航と帰国が全面的に禁止となります。
東南アジアを知っていた日本
実際に考えてみると、朱印船貿易という収入源を失った日本人町は当時タイの中では衰退するしかなく、この僅か5年から10年ほどがズレていれば、日本人町の壊滅というところまで至る必要は無かったのかもしれません。
このように、日本人はこの時代に実際に東南アジアで居住し、西洋列強の動きについては、良く知っていたと言うことになります。タイは独立国の状態として在りましたが、近隣のマレーシアやシンガポール、フィリピンは既に西洋の植民地となっており、1602年にはインドネシアがオランダの植民地となります。
オランダから世界情勢を把握していた日本
これらの動きを良く見ながら、当時の日本は鎖国に踏み切った訳です。その後、日米和親条約による開国まで200年以上、鎖国が続きます。
鎖国をしていたとはいえ、オランダ船だけは長崎に入港することができることになります。このオランダ東インド会社との仲介を行ったのが、先日、真田広之さん主演の、ディズニープラスの作品の「SHOGUN 将軍」に登場するウィリアム・アダムス。三浦按針ですね。
蘭学により学問が発展
幕府は鎖国中も、実際はオランダ人から欧州諸国らの動きを聞いて把握していたと言われています。この時代にオランダ人がもたらした西洋の学問を蘭学と呼び、杉田玄白は有名で、大阪大学の元は蘭学塾の適塾であり、現在でも大阪に残っています。この塾には福沢諭吉も在籍しており、第10代塾長にもなっています。適塾を開いたのは緒方洪庵。綾瀬はるかさんの代表作の、ドラマ「仁」で、武田鉄矢さんが演じる緒方洪庵ですね。
国交は252年間断絶
このように日本は長い間の鎖国期間に入り、東南アジア諸国との関係も途絶えた状態となりました。実際にタイとの国交という意味では、明治維新後、1887年の、「日暹修好通商に関する宣言」に寄りますので、252年間国交が無かったことになります。日本人町は壊滅させられ、多くの日本人が犠牲になったとされますが、生き延びた人々であっても、幕府は東南アジアからの帰国も禁止していますので、日本の地を踏むことは無かったのでしょう。
このアユタヤ王朝は1767年に滅び、現在はチャクリー王朝で、国王は10代目の、ラーマ10世となっています。国交回復依頼、日本の皇室とタイ王室はとても良い関係を結んでいます。大東亜戦争の時代には日本とタイは、1941年に、「日泰攻守同盟条約」を締結し、同盟関係を結んでいます。