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韓国が主張する竹島帰属の歴史的根拠は物理的に不可能な主張を織り交ぜた暴論

2021-10-09  カテゴリー:竹島問題

韓国が主張する竹島帰属の歴史的根拠は物理的に不可能な主張を織り交ぜた暴論

Photo by Joseon Dynasty (licensed under CC0 1.0)

韓国が主張する竹島帰属の歴史的根拠は物理的に不可能な主張を織り交ぜた暴論

Photo by Hyun Chae (licensed under CC0 1.0)

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韓国が主張する于山=竹島理論の無茶苦茶

『三国史記』における于山国

「512年6月に于山国が服属し毎年土地の産物を貢いだ。于山国は溟州のちょうど東の海の島にあり、別名を鬱陵島という」

『太宗実録』の于山島

按撫使の金麟雨が于山島から還ったとき、大きな竹や水牛皮、芋などを持ち帰り、3人の住民を連れて来た。そして、その島には15戸の家があり男女併せて86人の住民がいる。

鬱陵島であることが推測

『高麗史』の于山島

鬱陵島は県のちょうど東の海にある。新羅のとき于山国と称した。??于山・武陵この二島は互いに距離は遠くなく、天候が清明であれば望み見ることができる。

『世宗実録』の于山島

それまで「鬱陵」「武陵」「羽陵」などと呼んでいた島を今度は「茂陵」としている。「于山茂陵等」として、これまでの経緯から鬱陵島を指していると考えられる。

『八道総図』の于山島

八道総図では干山島は鬱陵島の西側に描かれている

『新増東国輿地勝覧』の于山島

于山島と鬱陵島を併記し、于山島を鬱稜島の西に描いている。

『西渓雑録』の于山島

于山島は高さが低く、天気が極めて良くなければ、また最も高い頂に登らなければ、見ることができない。二島はここからそう遠くはなく、一度風に乗れば到着することができるだろうという。

『東国輿地志』の于山島

漁夫安龍福は于山島を日本人の呼ぶ松島だと言っている。彼は二度日本に来た記録があるが、彼は鬱陵島は何度も訪れているが、『朝鮮八道古今総覧図』に描かれている架空の大きな島の于山島が見当たらず、日本人の呼ぶ松島をこの于山島だと信じていたようである。

『欝陵島図形』の于山島

于山島を描いた古地図は多数発見されており、どの地図にも于山島は鬱陵島の近傍に描かれ、「海長竹田 所謂于山島」と記されている。海長竹は竹の種類で、田のように広く自生していることを示していると考えられている。鬱陵島の東近傍には、実際に「竹嶼」という古地図と同様に小島があって、多くの竹が自生しているため、この頃からこの島を于山島と呼んでいたと考えられる。

『備辺司謄録』の于山島

鬱陵島の西に于山島がありとしている。

この他にも于山島を竹島だとする韓国政府の主張には相当無理があり、竹島はそもそも欝陵島の西側ではない。古地図にも欝陵島の西側に于山島が記されている。欝陵島を2島から成る島と思っていたのか、于山島は実際にどこにあるのかはわからない。欝陵島の真東にある竹嶼島を于山島と呼んでみたり、様々な于山島が存在する。

これを持って竹島を文献に書いてある于山島だと主張するのは無理がある。




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