李承晩 Photo by Unknown author (licensed under CC0 1.0)
終戦後、韓国政府が最も嫌ったものが「日本時代の方が良かった」という言葉だろう。現に台湾では2.28事件が起きて親日派が暴動を起こすこととなり、李承晩元大統領もその事件を聞き警戒したはずだ。2.28事件は1947年に勃発し、大韓民国は1948年に建国されている。
建国後すぐに行われたのが親日の排除だ。日本統治を懐かしんだだけで、共産主義者などと同じく政治犯と見做され逮捕投獄された。建国以来僅か2年間で、なんと日本統治時代35年間の逮捕者数を超えたのである。
大韓民国の初代大統領となった李承晩は、日本統治時代の大半を国外で過ごしている為、実際には日本統治について知っている訳ではない。ただ日本が大嫌いだった。李承晩がアメリカに亡命していた時代では、日本統治前の李氏朝鮮は「東洋の理想国家」だと宣伝していたほどだった。
台湾では日本統治が終わったものの、そこへやってきたのは蒋介石率いる国民党軍であり、その政治は酷いものだった。韓国でも日本統治が終わったとはいえ、国を上手く統治運営できる保証は全くない。
日本統治時代に国の運営に携わった人たちを、日帝残滓として次々と追放して行ったのだから、政治経験の無い素人集団が政治行政を担うことになる。その他、北朝鮮と結託して国家転覆を狙わないかとの懸念から共産主義者に対する粛清、虐殺も多く行われている。
軍事政権として発足した大韓民国にとって国家運営の脅威になる可能性があるものは親日であり、共産主義者であった。それらをヒステリックに排除して行った一方、保導連盟事件他、済州島四・三事件、国民防衛軍事件など政府の失政の批判の目を逸らす為にも反日が使われた。
過去の歴史も塗り替えられた。李承晩自身が日本統治時代を知らないのだから、歴史を塗り替えるのは逆に容易だったとも言われている。
ラスク書簡が送られ竹島を日本領としたサンフランシスコ平和条約発効~講和会議に参加できなかった韓国竹島領有権その他韓国の要求を退けたラスク書簡。ラスク国務次官補は、書簡を送り「合衆国政府は、遺憾ながら韓国の修正の提案に賛同することができません。」と伝えた
日本統治時代に朝鮮半島は搾取され奴隷化されたという歴史観は、韓国建国後に国内政治がうまく行かなくても、日本統治時代より遥かにマシだという架空の「より良い政府」を作成したのだ。
その歴史観を社会通念化する為には日本統治を肯定するだけでも政治犯となる訳だ。最も問題なのは、そのような社会通念や教育を現在も引き継いでいるということだろう。
朝鮮半島に根付いた奴婢制度。日本統治下に初めて身分制度が撤廃された奴婢5人に牛1頭で売買された。南朝鮮半島では稲作が行われていたが直播栽培で、田植えをするようになったのは李氏朝鮮末期からである。畑作は単純に効率性が悪い為、奴婢の需要が多かった。 そのため北側では奴婢を多く使用した。犯罪を犯した人間を奴婢にしたり、借金の代わりに奴婢に変えて量産した。
徴用工問題とは日韓併合を不法行為と認定し強制労働についての慰謝料請求を認めたもの駐日韓国大使に内定の尹徳敏氏が、徴用工問題で韓国政府が代位弁済をする案を提示しているようだが、この問題を整理してみると、徴用工問題は2つの全く違うポイントがある。
安重根千葉十七顕彰碑 看守であった千葉が受け取った安重根の遺墨千葉十七は宮城県栗駒町猿平出身で、当時陸軍憲兵として旅順獄中安重根を看守する役割を担っており、27歳の青年だった。死刑を目の前にして切々と語る安重根の東洋平和論と民族独立への悲願について、千葉は深く心を動かされた。
安重根の息子 安俊生と伊藤博文の息子 伊藤文吉は博文寺で和解安重根の息子の安俊生は父親と伊藤博文を供養し、読経した駒田は安重根の位牌を彼に手渡し、二人の霊を永遠に追悼するよう諭した。
純宋皇帝の勅諭と日韓併合の真実 趣味のビリヤードに興じ、夜は蓄音機を聴く生活両国皇帝の裁可をもって条約は発効して大韓帝国は滅亡し、日本の朝鮮総督府の統治下に入った。以下に掲載しているのは朝鮮王朝最後の皇帝である純宋皇帝が朝鮮半島に向けて発した勅諭です。新聞にも掲載されました。
新たに発足した尹錫悦政権下の駐日韓国大使に内定の尹徳敏氏が、徴用工問題で韓国政府が代位弁済をする案を提示しているようだが、この問題を整理してみると、徴用工問題は2つの全く違うポイントがある。「未払い賃金」と「不法行為」の問題だ。
一つは日韓請求権協定で話し合われた中で、終戦直後に韓国人が朝鮮半島に引き上げる際、もしくは朝鮮半島から日本企業が引き上げる際などに発生した、「未払い賃金」の問題である。
これは1965年協定の中で戦後補償金として包括して韓国側は受け取り、その後も盧武鉉政権下において徴用工の未払い賃金は1965年協定に含まれるとして、韓国政府が補償を行っている。
現在問題となっている徴用工問題とは、徴用そのものが国際法上違法な強制労働であり、不法な植民地支配と侵略戦争遂行に直結した反人道的不法行為であると、根拠もなく韓国大法院が一方的に決めつけた上での「慰謝料請求」となっているものだ。
これは軍艦島の世界遺産申請の際に争われたForced to work(国際法上認められる徴用)か、Forced labor(国際法上認められない強制労働)かの問題でもあり、当時の日本政府による国家総動員令は国民に等しく適用されたものであり国際法上合法のForced to workであることは言うまでもなく、軍艦島のユネスコ世界遺産登録の際にもこのForced to workを使用することで韓国側も合意をしている。
朝鮮半島では終戦後国際軍事法廷は一度も開かれておらず、朝鮮半島内でただのひとつも戦犯とされた事例はなく、戦犯として裁かれた者は居ない。日韓併合の不法性や徴用に関しての強制連行などについて国際法上不法認定された事実は一つもない。
佐渡金山の世界遺産登録申請に又しても反対する韓国 日本が強制労働では無いという根拠2021年4月の菅内閣での閣議決定及び軍艦島のユネスコ世界遺産登録及び今回の佐渡金山の登録申請において当時の徴用は強制労働(forced labor)にあたらないという見解の根拠を掲示します。根拠となる1930年の「Forced Labour Convention」です。
つまり韓国の大法院が何の根拠もなく国際法も参考にせず、不法行為と決めつけた点が現在の徴用工問題の重要なポイントである。その意味で尹徳敏氏は代位弁済という表現を使っているが、かなり違和感がある。徴用、日韓併合の違法性そのものが存在しないからだ。
辛亥革命を支えた日本 中国建国は日本へ留学していた孫文が達成したもの孫文は日清戦争の終結後に広州での武装蜂起に失敗し、日本に亡命した。1897年、宮崎滔天の紹介によって頭山満と出会い、頭山を通じて平岡浩太郎から東京での活動費と生活費の援助を受けた。
漢字を学ぶ日本 漢字を廃止した韓国韓国は1970年に漢字を廃止した。呉善花氏は当時を振り返り、1970年の春にはすべての教科書から漢字が消えていったと言っている。結果を見れば韓国人は過去の文書を読むことができなくなった。過去漢字が使われ記された一切の歴史を読むことが出来ない。
パリ国際会議場で提出された「人種差別撤廃法案」世界で初めて日本が行った提案1919年に日本はパリにおいて世界で初めて国際会議場で人種差別撤廃を提案した。参加国は驚いた。そのような発想が無かったからだ。日本は日露戦争以降国際的な地位が飛躍的に向上し、1920年に発足する国際連盟では常任理事国となる。
ソウル独立門は日清戦争後中国からの独立を記念し徐載弼が建設したもの それすら知らない韓国大統領日本が勝利し下関条約で朝鮮半島の独立が明記されると、これを喜んだ徐載弼は独立協会を設立し、清への服属の象徴であった迎恩門を壊し、跡地の隣に独立門を建てた。これが現在の独立門となる。
日本統治後の台湾と韓国が正反対の理由 独立宣誓 建国の精神に大きな違い台湾と韓国があまりにも違う理由は何だろう。台湾も韓国も同じく軍事政権として始まった国であり、民主主義を標榜して始まった訳ではない。
蒋介石 Photo by Unknown author (licensed under CC0 1.0)
台湾と韓国があまりにも違う理由は何だろうかと色々考えていると、国民性の違いは確かにあるものの、そこに答えがあったと言っても解決策が無いのだから意味がない。
朝鮮半島分割は考えてみたら冷戦構造の中で生まれていながら、社会主義と民主主義の構図ではない。軍事独裁政権と社会主義の対立という不思議な構造になっている。
台湾を見てみた場合どうかといえば、同じく中国共産党と対峙した国民党の国であり、一党独裁制であり、民主主義を標榜して台湾が始まった訳ではない。
韓国では日帝残滓と言い日本に協力した人間を次々と粛清、排除した。台湾ではニ・ニ八事件が起きて親日勢力が暴動を起こした。
ここは大きく違う点だが、その後国民党政府は再発を恐れ本土知識人や共産主義者を次々と粛清した。粛清と聞いて同じかと思ったが、親日勢力の粛清というものは無かったのだろうかと色々調べたのだが見つからなかった。
韓国と台湾は共通する点が多い。同じく日本統治を経験し、終戦後の建国も社会主義と対峙する上の民主主義では無かった。
韓国は北朝鮮と対峙し、台湾は中国共産党と対峙していた。そして両国共に民主主義国家となった。
そこで明らかに違う点として、蒋介石の8月15日の演説がある。以下に掲載します。
わが中国(台湾)の同胞は、「旧悪を念わず」と「人に善を為す」ということがわが民族伝統の高く貴い徳性であることを知らなければなりません。
われわれは一貫して、日本人民を敵とせず、ただ日本の横暴非道な武力をもちいる軍閥のみを敵と考えると明言してきました。
今日、敵軍はわれわれ同盟国が共同してうち倒しました。彼らが投降の条項をすべて忠実に実行するように、われわれが厳格に督励することは言うまでもありません。
但し、われわれは報復してはならず、まして無辜の人民に汚辱を加えてはなりません。彼らが自らの誤りと罪悪から抜け出すことができるように、彼らがナチス的軍閥によって愚弄され、駆り立てられたことに、われわれは、慈愛をもって接するのみであります。
もし、かっての敵が行なった暴行に対して暴行をもって答え、これまでの彼らの優越感に対して奴隷的屈辱をもって答えるなら、仇討ちは、仇討ちを呼び、永遠に終ることはありません。
これはわれわれの仁義の戦いの目的とするところでは、けっしてありません。これはわれわれ軍民同胞一人一人が、今日にあってとくに留意すべきことである。
次に李承晩の3.1臨時政府憲章の宣誓文を掲載する。
蒋介石も李承晩と同じくナチスを引用しているものの、目指す道が全く違っていたことが良くわかる。これが両国の未来を大きく分けたのかもしれない。
韓国憲法前文にある大韓民国臨時政府の法統として臨時政府の宣誓があります。そこには「我らの正義がまさに日本の暴力に勝るのである。同胞よ、起きて最後の一人まで鬪うべし。」と書かれています。
大韓帝国建国と国号変更の意味を知らない韓国天皇を日王と呼ぶことについて、中国皇帝を唯一の皇帝とし、朝鮮半島は王であり日本も王だという主張はおかしな話だ。日本は元来中国の属国ではない。大韓帝国は、日清戦争後に朝鮮半島が独立をし、高宋がもう中国の属国では無いのだから、対等の意味である皇帝の称号を持つとして新たに建国したものだ。
日韓併合期に建てられた明洞芸術劇場。当時の名前は明治座であることを韓国人の多くは知らない明洞芸術劇場は明治町に在った明治座だ。明治町は現在の明洞となり、明治座では多くの映画がや演劇が公開された。
辛亥革命を支えた日本 中国建国は日本へ留学していた孫文が達成したもの孫文は日清戦争の終結後に広州での武装蜂起に失敗し、日本に亡命した。1897年、宮崎滔天の紹介によって頭山満と出会い、頭山を通じて平岡浩太郎から東京での活動費と生活費の援助を受けた。
安重根の息子 安俊生と伊藤博文の息子 伊藤文吉は博文寺で和解安重根の息子の安俊生は父親と伊藤博文を供養し、読経した駒田は安重根の位牌を彼に手渡し、二人の霊を永遠に追悼するよう諭した。
朝鮮半島史を整理したのは日本 それを排除し独自の歴史を作った韓国朝鮮半島の歴史を整理したのは日本だった。その時まで各種の文書はその場所に保管されていただけだった。近代歴史学の観点から体系化した。稲葉岩吉・末松保和・中村栄孝ら日本側の歴史学者だけでなく、洪憙・李能和・崔南善・李丙燾ら朝鮮半島側の知識人·文化人も参加し、その数は計41人にのぼる。
Photo by Tomchen1989 (licensed under CC0 1.0)
韓国では歴史を知らなければ立派な大人になれないと言われるそうだ。日本では歴史は教科の一つであり、理数系の人などは、好きじゃないからあまり勉強しないという人も多い。
韓国は歴史に興味があるのかという疑問がある。歴史認識の違いよりも問題はそのアプローチだ。植民地というが、その中で発展した歴史を何故学ばないのかというのは不思議でならない。
歴史学、土木、工学、化学、医学、その他様々な社会インフラや社会制度を導入した日本人は誰か、そしてその人物はどのような人物なのだろうか。
それを学ばず歴史を学んだことになるだろうか。その時代の朝鮮半島を直視し、その上で考えることが歴史を学ぶ上でのアプローチだ。
日本に統治されたことばかりを叫ぶのみで、その中で発展した事実は封印されています。両方を学ぶのが歴史教育です。
アジアで行われた日本統治についてはどうだろうか。台湾統治、インドネシア、マレーシア、パラオ、ベトナムなど、それらの国での植民形態と比較すれば植民地についての考え方が見えてくるはずだが、どうもそういう観点は無いようだ。
西洋の植民地との違いは何だろう。それはいつから始まり、どのようなプロセスでアジアに広がったのか。西洋と言っても、イギリス、フランス、オランダ、これらの国の植民経営形態は違う。
韓国が日本に対して持ち出す歴史の概念は固定化され、多角的な視野を持っていない。あくまでも日本統治から始まる一面的な歴史認識であり、そこには中国すら入ってこないから、東洋史でも無い。もしくは創作史であるとすら見られている。
日本統治時代の資料は日本に保管されている。もちろん当時の日本語で書かれている。公文書として、議事録や決議文なども公開されているため一般人でも閲覧可能だ。
日本統治時代を知るためには、韓国の歴史学者はそこへアクセスしなければならないはずだが、全くそのようなアプローチではない。それでは何の資料を元にしたのかと聞いても何も出てこないのだ。
朝鮮半島の一輪車の写真から見る日韓併合前の朝鮮半島の技術力と知識当時朝鮮半島では車輪を作る技術が無く、中国から輸入していた。車輪は高価なものである為、両班(朝鮮半島の貴族階級)と言えど車輪1つで移動していた。
まさか漢字が読めない歴史学者は居ないだろうか?韓国は1970年から漢字を廃止しておりそれ以降の世代は漢字が読めない。漢字が読めなければ、日本統治時代はおろか、それ以前の歴史も読めないはずなのだが。
韓国の歴史認識は漢字の廃止も大きく関わっています。漢字が読めなければ過去の文書にアクセスすることすらできません。
幻想の英雄安重根と、伊藤博文が日韓併合をしたという嘘の教育安重根は伊藤博文の顔も知らないまま暗殺を行ないます。伊藤はもはや総理大臣でも総監でもありません。そして安重根は獄中で自分が重大な錯誤を犯したと言います。
純宋皇帝の勅諭と日韓併合の真実 趣味のビリヤードに興じ、夜は蓄音機を聴く生活両国皇帝の裁可をもって条約は発効して大韓帝国は滅亡し、日本の朝鮮総督府の統治下に入った。以下に掲載しているのは朝鮮王朝最後の皇帝である純宋皇帝が朝鮮半島に向けて発した勅諭です。新聞にも掲載されました。
日本統治後の台湾と韓国が正反対の理由 独立宣誓 建国の精神に大きな違い台湾と韓国があまりにも違う理由は何だろう。台湾も韓国も同じく軍事政権として始まった国であり、民主主義を標榜して始まった訳ではない。
朝鮮を独立国として扱った日朝修好条規 天皇を認めない態度はこの時代から変わらない日朝修好条規は不平等条約という側面があるが、朝鮮を独立国とした初めての条約であり、朝鮮王朝の開国のきっかけとなった。江戸時代には朝鮮通信使による国交があったものの、明治維新以降は明治天皇の国書を朝鮮は受け取らなかった。
金玉均と李氏朝鮮 暗殺されても朝鮮半島の近代化の目的は果たした真の英雄当時の世界の流れの中で英雄となるべき人物は安重根ではなく金玉均であった。彼が李氏朝鮮を倒し近代化の道を作れば、朝鮮半島の孫文となっただろう。金玉均は上海にて暗殺されるが、閔妃が恐れていたのは朝鮮王朝が倒されることに他ならない。
明洞芸術劇場は明治町に在った明治座だ。明治町は現在の明洞となり、明治座では多くの映画がや演劇が公開された。
1937年4月24日には、聖峰映画閣と新興キネマが合作し、李圭煥(韓国語版)と鈴木重吉とが共同監督した韓国語による初のトーキー『ナグネ(韓国語版)』(日本公開題『旅路』が、同館で公開されている。
同館では日本語版の上映であったが、同日、府内の優美館では韓国語版が公開されている。韓国の映画会社が製作した映画の封切館としても機能し、1940年8月6日には、高麗映画協会が製作した映画『授業料(韓国語版)』(監督崔寅奎)、1941年2月19日には、東亜映画社が製作した映画『志願兵』(監督安夕影)が同館で公開されている。
奴隷が映画を見るのだろうか。見ていたなら既に奴隷ではないだろう。それでも奴隷にされたというならば日本は態々奴隷の為に映画を共同制作して見せてあげたのだろうか。
それでも既に待遇が奴隷ではない。奴隷が休日に映画を見に行く。休日があるのか。不思議だ。
朝鮮半島の一輪車の写真から見る日韓併合前の朝鮮半島の技術力と知識当時朝鮮半島では車輪を作る技術が無く、中国から輸入していた。車輪は高価なものである為、両班(朝鮮半島の貴族階級)と言えど車輪1つで移動していた。
当時韓国人の映画監督がいるということは、その人は相当過去に映画を見ていることになる。何故奴隷が映画を撮るまでに映画を観て勉強することができたのだろうか。もしくは日本の映画会社にでも就職していたのだろうか。
日本統治時代朝鮮半島は近代化し国が日に日に豊かになることを実感する時代でした。
恨んだのは両班 奴婢から解放された朝鮮半島人は自由を謳歌した普通に考えて日本を恨んだのは両班ですよね。人口の半数にも及んだ奴婢を解放した日本を奴婢が恨むでしょうか。 両班達は恨みますよね。ある日突然同じ身分になったんだから。
安重根の息子 安俊生と伊藤博文の息子 伊藤文吉は博文寺で和解安重根の息子の安俊生は父親と伊藤博文を供養し、読経した駒田は安重根の位牌を彼に手渡し、二人の霊を永遠に追悼するよう諭した。
李承晩は日本を嫌い歴史を作り替えた 現政府が「より良い政府」とするために繰り返された粛清終戦後韓国政府が最も嫌ったものが、「日本時代の方が良かった」という言葉だろう。現に台湾では2.28事件が起きて親日派が暴動を起こすこととなり、李承晩元大統領もその事件を聞き警戒したはずだ。2.28事件は1947年に勃発し、大韓民国は1948年に建国されている。
他国の世界遺産に日本は貢献 韓国が日本が破壊したと主張する石窟庵は世界遺産登録韓国の石窟庵があります。1909年、郵便局員が配達途中に偶然発見しました。倒壊寸前の建物を1915年から日本人が修復を行うようになりました。日本の統治が終わった後、1961年から韓国が再度修復をしましたが、「日本がデタラメに仏像を並べた」ということで、独自の配置に並び替えてしてしまいました。
朝鮮半島に根付いた奴婢制度。日本統治下に初めて身分制度が撤廃された奴婢5人に牛1頭で売買された。南朝鮮半島では稲作が行われていたが直播栽培で、田植えをするようになったのは李氏朝鮮末期からである。畑作は単純に効率性が悪い為、奴婢の需要が多かった。 そのため北側では奴婢を多く使用した。犯罪を犯した人間を奴婢にしたり、借金の代わりに奴婢に変えて量産した。