日韓併合期に建てられた明洞芸術劇場。当時の名前は明治座であることを韓国人の多くは知らない
2022-01-22 カテゴリー:日韓併合この記事をご評価いただけたら、
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日本人町明治町は現在の韓国の最大繁華街の明洞
明洞芸術劇場は明治町に在った明治座だ。明治町は現在の明洞となり、明治座では多くの映画がや演劇が公開された。
1937年4月24日には、聖峰映画閣と新興キネマが合作し、李圭煥(韓国語版)と鈴木重吉とが共同監督した韓国語による初のトーキー『ナグネ(韓国語版)』(日本公開題『旅路』が、同館で公開されている。
同館では日本語版の上映であったが、同日、府内の優美館では韓国語版が公開されている。韓国の映画会社が製作した映画の封切館としても機能し、1940年8月6日には、高麗映画協会が製作した映画『授業料(韓国語版)』(監督崔寅奎)、1941年2月19日には、東亜映画社が製作した映画『志願兵』(監督安夕影)が同館で公開されている。
朝鮮半島は日本から奴隷化されたというが
奴隷が映画を見るのだろうか。見ていたなら既に奴隷ではないだろう。それでも奴隷にされたというならば日本は態々奴隷の為に映画を共同制作して見せてあげたのだろうか。
それでも既に待遇が奴隷ではない。奴隷が休日に映画を見に行く。休日があるのか。不思議だ。
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朝鮮半島の一輪車の写真から見る日韓併合前の朝鮮半島の技術力と知識当時朝鮮半島では車輪を作る技術が無く、中国から輸入していた。車輪は高価なものである為、両班(朝鮮半島の貴族階級)と言えど車輪1つで移動していた。
当時韓国人の映画監督がいるということは、その人は相当過去に映画を見ていることになる。何故奴隷が映画を撮るまでに映画を観て勉強することができたのだろうか。もしくは日本の映画会社にでも就職していたのだろうか。
POINT
日本統治時代朝鮮半島は近代化し国が日に日に豊かになることを実感する時代でした。