純宗皇帝の勅諭と日韓併合の真実 趣味のビリヤードに興じ、夜は蓄音機を聴く生活
2021-05-13 カテゴリー:日韓併合Photo by Unknown author (licensed under CC0 1.0)
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親日勢力によって進められた日韓併合
1909年に入ると日韓併合の動きが強まり、李完用総理は一進会などの親日派勢力の後押しを受けて日本政府との間で韓国併合の話を進め、隆熙4年1910年8月22日、日韓併合条約を調印。
8月29日に両国皇帝の裁可をもって条約は発効して大韓帝国は滅亡し、日本の朝鮮総督府の統治下に入った。以下に掲載しているのは朝鮮王朝最後の皇帝である純宗皇帝が朝鮮半島に向けて発した勅諭で新聞にも掲載されたものだ。
この状況を収束させることは出来ない。
むしろ大任を任せ、完全なる方法と革新的な功績を得なければならない。その為私は自ら決断し、韓国の統治権を隣国大日本皇帝陛下に譲与し、東洋の平和を強固なものとし、韓国国民の生活と安全を確保する。国民は、国勢と時世を深察し、混乱することなく取り組み、日本帝国の文明の新政に服従し、その幸福を享受しなさい。私は、決して国民を忘れたわけではない。国民を救い、活かすための真意から出たものであり、そのことを良く理解するように。
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その後の純宗の生活
併合後の純宗(李坧)は、京城府の昌徳宮に住み、王として冊立され、「李王」と称された。併合前には心身ともに衰弱し、侍従に支えられなければ歩行できないほどであったが、この頃には歩行が可能になり快活に応対するようになった。寺内正毅は「国事多難の心痛から解放された」からではないかと述べている。
退位後の純宗は優雅な日々を送った
「李王」は非常に神経質であり、起床・入浴・就寝の時間は自ら時計を見て定刻通りに行った。平日の午後2時から4時までは趣味のビリヤードに興じ、夜は蓄音機を聴く生活を送った。
また父の李太王となった高宗同様記憶力は抜群であり、謁見した者の名前を忘れることはなかったという。帝国ホテルの初代料理長を務めた吉川兼吉親子のフランス料理を好み、ほぼ毎日食していた。
天皇陛下を敬愛した純宗
1917年6月には日本を訪問、10年前に訪韓した大正天皇に謁見する形式で再会している。11月には昌徳宮の大部分が焼損する火災が発生し、焼け残った楽善斎という建物に移ったが手狭であった。
李完用は李太王の住む徳寿宮への移転を考えたが、これを耳にした李坧は「天皇陛下から賜った昌徳宮だから動かぬぞ」と述べて李完用を叱責し、以後2年間昌徳宮の修復が終わるまで楽善斎で暮らした。
李王職事務官の権藤四郎介は李坧が「昌徳宮」の宮号によって李王家の祭祀が保たれると考えていたからと見られている。
POINT
韓国は無理やり日韓併合をさせられたと主張していますが、純宗の勅諭やその後の生活や言動を見て、どう見てもその様には見えません。