辛亥革命を支えた日本 中国建国は日本へ留学していた孫文が達成したもの
2021-06-07 カテゴリー:日韓併合クリック応援よろしくお願いします。


孫文は日清戦争の終結後に広州での武装蜂起に失敗し、日本に亡命した。1897年、宮崎滔天の紹介によって頭山満と出会い、頭山を通じて平岡浩太郎から東京での活動費と生活費の援助を受けた。また、住居である早稲田の2千平方メートルの屋敷は犬養毅が斡旋した。1902年に日本人の大月薫と結婚した。
長い間満州民族の植民地にされていた漢民族の孫文は、「独立したい」「辮髪もやめたい」と言っていた。同年、宮崎滔天らの援助で中国同盟会を結成。ここで東京に留学中の蒋介石と出会う。
1911年10月10日、共進会と同学会の指導下、武装蜂起が起き、各省がこれに呼応して独立を訴える辛亥革命に発展した。
現在も北京、上海、武漢、南京、大連、香港などに、孫文の日本名である中山を取った中山公園がある。道の名前にも中山路というものも多く、孫文が日本人の妻を持ったことは中国人は誰でも知っている。実は私は中国に行った際に初めて中国人から聞いた。
宮崎滔天は金玉均とも交流があり、日本の要人と交流を深めた。金玉均の暗殺により、朝鮮半島は自力近代化の道を断たれることになった。