金玉均と宮崎滔天 日清戦争前に日本では清への怒りが燃え上がっていた
2021-06-30 カテゴリー:日韓併合宮崎滔天 Photo by Unknown author (licensed under CC0 1.0)
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孫文や金玉均とも交流が在り、辛亥革命を支えた宮崎滔天の著書「三十三年の夢」には金玉均について以下のように書かれている。
金玉均の暗殺を日本人がどのように捉えたのか
金玉均惨殺のニュースは日本中をおおいに驚かせた。
問題は、清・朝鮮両国による金玉均暗殺が、日本中に予想をこえる憤激の嵐を巻きおこしたことである。そのため、折から朝鮮全羅道に発生した東学党の乱が広がったことと相俟って、これを大きなトリガーとしての日清開戦の時計が急激に動き出した。
浅草本願寺での金玉均本葬が明治二七年の五月二十日、日清戦争の火ぶたが切られたのが八月一日。その間、わずか二ヵ月ちょっと、「撃てや懲らせや清国」の大合唱はあっというまに日清両国開戦になだれこんでしまったのである。
当時も朝鮮半島は親中と親日が対立していた
金玉均は日本型文明開化を目指した朝鮮人であり、甲申事変により当時実権を握っていた閔妃に対してクーデターを起こした人物です。
クーデターは挫折し三日天下と呼ばれ、その後日本へ亡命します。そこで犬養毅や宮崎滔天、福沢諭吉などの支援を受け親交を深めます。しかし金玉均は閔妃に与した旧友に騙され上海へと向かい、そこで暗殺されます。
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写真は当時の新聞記事で日本人が見たものです。金玉均は自らの革命には至らなかったが、死んだ姿が日本人を動かし、朝鮮半島を独立へと導いた。
POINT
日清戦争の原因は東学党の乱と言われていますが、その前に金玉均の暗殺により日本国民の清に対する敵意は充満していたことを宮崎滔天が表現しています。