パリ国際会議場で提出された「人種差別撤廃法案」世界で初めて日本が行った提案
2021-06-13 カテゴリー:日韓併合クリック応援よろしくお願いします。
1919年に日本はパリにおいて世界で初めて国際会議場で人種差別撤廃を提案した。参加国は驚いた。そのような発想が無かったからだ。日本は日露戦争以降国際的な地位が飛躍的に向上し、1920年に発足する国際連盟では常任理事国となる。
その前段階の会議場において、何を言い出すのかということだ。日本の説得により、あと一歩で可決という時にアメリカの猛反発を受け、可決には至らなかった。アメリカは奴隷制により優位な経済を運営していた為だ。
ここで言えることは日本は、アジア諸国の植民地の現状を憂慮し、その批判を行い新しい国際秩序を作ろうとしたことだ。大東亜共栄圏構想とは何か。それはアジア開放と白人支配の排斥だった。
日本は孫文の中華民国建国を助け、金玉均を支援した。金玉均の三和主義は日本、朝鮮、中国が不可侵の独立を保ち国力を高め、白人からの支配と対抗するという考え方だ。
その他にもアジア各国から日本に留学に来ていた将来の指導者達が居た。日本は惜しみなく近代化の恵みを伝えた。日清戦争における朝鮮半島の独立も同じだ。伊藤博文は韓国統監の退任まで朝鮮半島独立論であり、併合の前年まで維持された。
朝鮮半島以外のアジアの国々は、これらのことを良く知っている。だから現在でも親日なのだ。台湾で従軍した人は、今でもアジア開放の戦いに参加したことは誇りだと話す。
どの戦争も正しいものは無いが、戦うには理由がある。敗北しても尚、その理由こそが重要だ。日米の視点では全く逆だろうし、韓国視点も違うだろう。アジア視点で見ると多くのものが見えてくる。
2枚目は1943年大東亜会議の記念写真
日本:東條英機
中華民国:汪兆銘
満州国:張景恵
フィリピン共和国:ホセ・ラウレル
ビルマ国:バー・モウ
タイ王国:ワンワイタヤーコーン
インド:チャンドラ・ボース