|政治|歴史|日韓関係|国際関係|<br>自虐史観から脱却して世界を見る |政治|歴史|日韓関係|国際関係|
自虐史観から脱却して世界を見る
皇紀2,684年

Home
Japanese Korean


インドネシア開放と今村均 人道的政策「占領地統治要綱」に依拠

2021-10-21  カテゴリー:大東亜戦争

インドネシア開放と今村均 人道的政策「占領地統治要綱」に依拠

Photo by W.Wolny (licensed under CC0 1.0)

この記事をご評価いただけたら、
クリック応援よろしくお願いします。
にほんブログ村 政治ブログ 国際政治・外交へ 国際政治・外交ランキング

インドネシア開放と今村均

今村均は1942年にインドネシア上陸作戦を指揮した。日本軍の兵力は5万5千人、9日間でオランダ軍約9万3千人と約5千人のイギリス軍、アメリカ軍、オーストラリア軍を無条件降伏させて軍事作戦は成功した。

搾取を拒んだ今村

流刑とされていたインドネシア独立運動の指導者、スカルノとハッタら政治犯を解放。日本で衣料が不足し日本政府はジャワ島で生産される綿の大量輸入を申し入れたが、今村はこの要求を拒んだ。

インドネシアが生産する綿を取り上げると現地人の日常生活を圧迫し、死者を白木綿で包んで埋葬するという宗教心まで傷つけると考えたのだった。

オランダ統治下で禁じられていた独立歌『インドネシア・ラヤ』が歌われていることを知った今村は、東京でそのレコードを作らせて住民に配り喜ばれた。

人道的政策を続行

後に状況調査の為に派遣された武藤章少将は強圧政策の必要性を訴えたが、今村は日本軍の「占領地統治要綱」に定めてある「公正な威徳で民衆を悦服させ、軍需資源施設の破壊復旧する」という規定に則っていると反論し、新要綱の発令されるまでは、ジャワ軍政方針は決して変更しないと拒否した。

敗戦後もインドネシアで戦った日本兵

日本の敗戦後、オランダ、イギリスは再び植民統治の為にインドネシアに戻ってきた。終戦後祖国に帰らずインドネシア独立戦争に加わった日本兵は、3千人といわれ、1千人が戦死、1千人がインドネシア独立後に日本へ帰国、1千人がインドネシアに帰化したといわれる。

英雄墓地に埋葬される旧日本兵

戦死した日本兵はカリバタ英雄墓地をはじめ、各地の英雄墓地に葬られ、戦後生き残った元日本兵も、インドネシア国籍を与えられたインドネシア人として、これらの墓地に埋葬される予定だ。




公告 公告

公告公告
公告 公告