フィリピンのジャングルに潜伏し29年間作戦を続行した小野田寛郎ら4人の日本兵
2022-01-10 カテゴリー:大東亜戦争Photo by Unknown author (licensed under CC0 1.0)
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士官学校入学後すぐに出兵する小野田氏
小野田寛郎:1944年1月に久留米第一陸軍予備士官学校へ入校する。同年12月、フィリピン防衛戦を担当する第14方面軍情報部付となり、残置諜者および遊撃指揮の任務を与えられフィリピンに派遣。
師団長横山静雄陸軍中将から「玉砕は一切まかりならぬ。3年でも、5年でも頑張れ。必ず迎えに行く。玉砕は絶対に許さん。わかったな」と伝えられる。
終戦後フィリピンからの情報でルバング島のジャグルに日本兵が潜伏していることを日本政府は知っており、様々な捜索活動が行われるが4人の日本兵は姿を現さなかった。
共にルバング島に潜伏した3人の日本兵
- 赤津勇一:1949年9月にグループを離脱し、1950年6月にアメリカ軍に投降。
- 島田庄一:1954年5月7日に起きたフィリピン警察隊との銃撃戦で眉間を撃ち抜かれ死亡。享年41。
- 小塚金七:1972年1月に起きたフィリピン警察隊との銃撃戦で肩を撃たれ死亡。享年51。
MEMO
フィリピン政府は日本兵の捜索を行い、時には銃撃戦になることもありました。
29年に及ぶ潜伏生活は1人になっても続行
1974年に、捜索活動に触発された冒険家・鈴木紀夫がルバング島を訪れ、小野田との接触に成功する。会話の中で小野田は上官の指示が在れば投降すると告げる。
29年間潜伏を続けた小野田は日本の捜索隊が置いていく新聞記事などを読んでおり日本の戦後の経済発展の情報も知っていた。
しかしそれなら何故命令系統を見つけられないのか、その上で何故自分に命令をしないのかということが投降をしなかった理由だったと述べている。
元上官の谷口による任務解除命令を受けて小野田はジャングルを出ることになる。
- 大命ニ依リ尚武集団ハスヘテノ作戦行動ヲ解除サル。
- 参謀部別班ハ尚武作命甲第2003号ニ依リ全任ヲ解除サル。
- 参謀部別班所属ノ各部隊及ヒ関係者ハ直ニ戦闘及ヒ工作ヲ停止シ夫々最寄ノ上級指揮官ノ指揮下ニ入ルヘシ。已ムヲ得サル場合ハ直接米軍又ハ比軍ト連絡ヲトリ其指示ニ従フヘシ。
POINT
小塚氏が亡くなられて1人になってからも潜伏生活は継続され、かつての上官によって任務が解除されました。