戦後行われた昭和天皇による全国巡幸 - 移動距離は3万3千kmに及ぶ
2022-01-18 カテゴリー:大東亜戦争
Photo by Unknown Mainichi Shimbun (licensed under CC0 1.0)
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マッカーサー執務室に訪れた天皇陛下
終戦直後、天皇陛下はGHQマッカーサーの執務室を訪問します。マッカーサーは天皇陛下が亡命の協力を要請しにきたのだと思いました。
戦争に敗れた国家元首がそのまま国家にとどまるということは、西洋の歴史では見られなかったのです。王朝の交代、処刑、亡命というのが世界の常識でした。
ヒットラーはすでに自殺し、ムッソリーニは処刑されました。
自らの命を委ねに行った国家元首
天皇陛下がマッカーサーに言った言葉は、「私がどうなろうと、日本国民の命を助けてほしい」ということでした。
この言葉に驚いたマッカーサーは、日本統治に対する根本的な考え方が変わったと、後に回想録に記しています。
その後天皇陛下は全国巡幸に出発します。日本全国を隅々まで歩き回りながら、国民一人ひとりを励ますことが目的でした。占領下で天皇陛下が国民にできることは何一つ無く、悩みに悩んだ結論でした。
極東軍事裁判が行われる最中、それは始まります。軍隊も解体された後、警護も少なく歩き回り、民衆に石を投げられたり、吊るし首に合う可能性もあると、GHQは巡幸を簡単に許可します。
敗戦後の荒野となった人々の混乱の中を。 誰もが殺害できる各地を歩く。そんな覚悟の旅でした。
3万3千kmに及ぶ全国巡礼の旅
数万人の群衆の中を巡幸し、全国総移動距離は3万3千km、総日数は165日に達します。GHQでは少数の同行者だけがいました。原爆投下にあった広島には70年草木も育たないと言われました。
国として放射能の知識は全く無く、噂だけが蔓延し、広島に住んでいる人以外には近づこうとする人はいませんでした。
1947年、天皇陛下のお姿が広島にありました。人々は勇気づけられ、広島以外の人々も「天皇陛下がおいでになったのだから、もう広島は大丈夫だろう」という考えに大きく変化しました。
MEMO
焼野原となった戦後の日本を巡幸し多くの日本人が勇気を持ったと言われています。
全国で歓迎される天皇陛下
全国巡幸はGHQの予想を大きく外れました。石ころ一つ投げられるどころか、あちらこちらで歓迎する国民の姿は到底理解できない。
英国なども驚愕の事態だと報じ、欧州全域に知れ渡りました。
長い巡幸は北海道を最終地点として終了します。生涯希望していた沖縄を訪問できなかったことが唯一の心残りと言われています。沖縄訪問は明仁上皇陛下によって行われています。
POINT
敗戦後の日本人の天皇陛下に対する敬愛の念が変わらないことに西欧諸国は驚きました。