戦後1000万人の餓死者が出る食料危機を救った昭和天皇の言葉-動かされたマッカーサー
2024-06-01 カテゴリー:大東亜戦争Photo by Associated Press (AP) (licensed under CC0 1.0)
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戦後1,000万人の餓死者が出る危機
フォード元大統領に招かれ、初めての米国国賓訪問の晩さん会で、昭和天皇は、貴国民に直接感謝の言葉を申し述べることを念願していたと発言されました。これはどういう意味でしょうか。1945年、太平洋戦争は終わったものの、終戦の年もくれる12月になると日本は極度な食料難に陥っていました。年が変わり翌年になると「1000万人の餓死者が出るのではないか」とささやかれました。昭和天皇は、文部大臣である松村謙三に、次のように言われています。
昭和天皇の提案
『食料の悪化は、このまま推移すれば多数の餓死者をだすようになるというが、戦争に塗炭の苦しみをした国民に、このうえさらに多数の餓死者をだすようなことはどうしても自分には、耐え難いことである。』
『政府ではアメリカにたいして食料の提供を要請しているが、アメリカはこれに応諾を与えてくれぬそうであるけれども、考えてみると当方からは食料の代償として提供すべき何物もないのだから、致し方ない。』
『それで、聞けば皇室の御物の中には、国際的価値のあるものが相当あるとのことである。
よって帝国博物館の館長に命じて調査させ、その目録を作成させたのがここにある。』
『これを代償としてアメリカに渡し、食糧にかえて国民の飢餓を一日でもしのぐようにしたい。そのように取り計らうように。』と伝えました。
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食料支援を応諾したマッカーサー
当惑した松村でしたが、マッカーサー元帥に、昭和天皇の心持ちを伝え、御物の目録を差し出すと、すでに最初の面会で「自分の身はどうなっても国民を助けてほしい」という昭和天皇の言葉に感動を覚えていた元帥は、こう言いました。「天皇の考えられることは、まことによく分かるが、自分としてもアメリカとしても、せっかくの懇請であるけれども、皇室の御物を取りあげて、その代償に食糧を提供するなどのことは面目にかけてもできない。」
「この目録は陛下にお返ししたい。しかし国民のことを思う天皇の心持ちは十分に了解される。自分が現在の任務についている以上は、断じて日本国民の中に餓死者を出すようなことはさせない。かならず食糧を本国から移入する方法を講ずる。陛下に御安心なさるように申し上げてもらいたい。」目録を返却した後に米国からの食糧支援の策を講じると伝えました。
食料危機を回避
GHQとは連合国軍最高司令官総司令部のことであり、GHQ本部はかつての第一生命館として、東京都有楽町に在った建物の中に設置されました。8月15日にポツダム宣言受諾による終戦が宣言され、GHQ本部が設置されたのが9月15日。昭和天皇が駐日アメリカ合衆国大使館にてマッカーサーの元を訪れたのが9月27日となっています。この時、マッカーサーは昭和天皇が命乞いか亡命の相談をしに来たと思いました。しかし昭和天皇は、自分がどうなっても構わないから国民を助けてほしいと言ったことにマッカーサーは大いに驚いたという話は有名でしょう。この昭和天皇の言葉は、後のGHQの占領統治政策に大きく影響したと言われています。その後昭和天皇は再びマッカーサーの心を動かし、多くの日本人が餓死する危機を回避することができたのです。
自衛の戦争だったと証言したマッカーサー
GHQは占領政策を行うとともに、日本の戦争についての経緯や原因、目的などを調査し検証する役割を持っていました。東京裁判によって多くの戦犯とされた人々が刑に服し、日本は1951年9月8日に調印されたサンフランシスコ講和条約が翌年に発行されるにあたり、国際復帰を果たします。マッカーサーは同年5月3日に米国上院軍事・外交合同委員会で、日本が戦争を始めた目的は、大部分が安全保障のためだった。つまり、自衛のための戦争だったと証言しています。
削除された天皇の地位保全
ポツダム宣言には当初、天皇の地位保全は書き込まれていましたが、その後削除されたということが分かっています。一時はソ連の参戦を期待したアメリカですが、ルーズベルトが死去した後、極秘事項だった原爆研究の存在を後に大統領となるトルーマンが知り、日本を降伏させない文書に作り変えたと言われています。天皇の地位保全と国体の維持は日本のこだわる部分であり、そのことはアメリカは十分に理解しており、その為に当初は天皇の地位保全を書き込んでいました。その後広島、長崎に原爆が投下され、天皇陛下はポツダム宣言の受諾を決定します。この時点で、自らの命が守られる保証は全く無かったのです。
アラスカ空港に立ち寄った昭和天皇
1971年9月26日、昭和天皇皇后両陛下は、ヨーロッパ公式訪問の途上で、給油のため、アラスカのアンカレッジ空港に、日本航空のお召機で立ち寄っています。 昭和天皇の、即位後最初の外遊であり、天皇として史上初めて外国の地に降り立った場所がアメリカのアラスカとなっています。この時、大統領リチャード・ニクソン、パトリシア・ニクソン夫妻が、天皇と皇后を滑走路まで出迎えています。格納庫内で歓迎の辞・答辞が交わされた後、臨時の迎賓館に指定されたアラスカ地区軍司令官邸にて会談が行われました。これは、戦前も含め、史上初の天皇と米国元首との面会となりました。
初の国賓訪問
正式な米国訪問としては、1975年に昭和天皇は国賓としてフォード元大統領に招かれホワイトハウスに居ました。これに先立ち、米国大統領としては初めてとなる日本への国賓訪問が 昭和天皇の訪米の前年の1974年11月18日から22日に、同じくフォード元大統領により行われています。日本の天皇の訪米について米国世論は殆ど興味が無く、報じられることがありませんでしたが、昭和天皇は米国に対しては当然恨みを抱いているだろうというのは、米国民の誰もが想像したことでした。そしてホワイトハウスでの晩餐会で天皇陛下は次のように挨拶をしました。
昭和天皇のスピーチ
「わたくしは多年、貴国訪問を念願しておりましたが、もしそのことがかなえられたときは、次のことを是非貴国民にお伝えしたいと思っておりました。と申しますのは、わたくしが深く悲しみとするあの不幸な戦争の直後、貴国が我が国の再建のために温かい好意と援助の手を差し伸べられたことに対して、貴国民に直接感謝の言葉を申し述べることでありました」と感謝の意を伝えました。さらに、「先の戦争を知らない国民が両国とも過半数を超えようとしています。しかしたとえ今後、時代が変わろうとも、貴国民の寛大さと善意は日本国民の間に長く語り継がれるものと信じます。」としめくくると、会場は多くの拍手で沸き返りました。つまり、皇室の御物を差し出し、マッカーサーに食糧支援を要請した時のことを、この最初の国賓訪問の晩さん会で感謝の意としてアメリカ国民に伝えたのです。
その後、この話題は瞬く間に全米に伝えられ、6日間も連続で新聞の第一面で日本の天皇の訪米が報じられました。戦争終結から30年後の出来事となります。
明治から昭和は激動の時代
昭和天皇は1901年4月29日に生誕され、1941年に宣戦の詔書により日本は、だいとうあ戦争に突入。敗戦後も昭和の時代には高度経済成長を行い、世界第二位の経済大国となります。1989年1月7日に昭和天皇の崩御により、昭和の時代から平成の時代に引き継がれます。
明治時代には戊辰戦争から始まり、日清、日露戦争を経て日韓併合が行われます。大正時代は第一次世界大戦に参戦し、日本は国際連盟の常任理事国として世界の中心のテーブルの椅子に座ります。昭和の時代は天皇の在位期間としては最も長いとされる62年となっており、だいとうあ戦争、高度経済成長、そして経済大国に上り詰める激動の時代だったと言えるでしょう。