ハーグ密使事件は告げ口外交 - 密使はなぜ無視された?主権を放棄した朝鮮を世界が認めていなかった証拠
2021-06-23 カテゴリー:李氏朝鮮
送られた密使 Photo by Unknown author (licensed under CC0 1.0)
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春生門事件というクーデター未遂を受けて、国家元首が逃亡しロシア公使館に亡命するという失態を繰り広げた李氏朝鮮の王の高宗は、日本が間に入り、ロシアと結んだ、第一次日露議定書(小村・ウェーバー協定)、第二次日露議定書(山縣・ロバノフ協定)により、その前提において慶運宮に戻ることができ、1897年国号を大韓帝国と改めた。帝国の名を国号に付けることは、日本や中国と同格という意味していたが、日本はこれを承認した。
その後1904年に日露戦争が始まり、戦争中に第一次日韓協約が結ばれ、日露戦争は日本に軍配が上がることになり、日露戦争終結後の1905年に締結された第二次日韓協約により、朝鮮政府は、国としての外交権をはく奪されることとなる。
亡命した高宗の安全を確保すべく、日本は日露議定書によりロシアとの話をつけ、日本と同格となる皇帝を擁する大韓帝国の建国を助けたにも関わらず、その後も高宗はロシア利権を引き込むこととなる。財政難から次々とロシアに利権を売り渡していくのだ。そして最終的に日露戦争が勃発することで、日本は朝鮮の外交権をはく奪することになる。
その外交権の回復を訴えるため高宗が、1907年ハーグ国際会議に密使を派遣したのがハーグ密使事件だ。現在行われている告げ口外交と同じことを当時もやっていた。
しかし招待したはずのロシアが裏切り、参加国全てに拒絶され、高宗が送った密使は会議場に入ることすらできなかった。逆に朝鮮半島における日本の管轄権が国際的に認められる場となった。
- 会議議長を務めるロシア帝国主席代表ネリドフ伯を訪問するが、面会を拒絶される。
- アメリカ、イギリス、フランス、ドイツの各国代表を訪ねるが、支援を拒否される。
- 会議開催国のオランダ外務大臣に面会を求めるが、拒絶される。
MEMO
オランダハーグでの会議は日本の朝鮮半島管轄権を認めたものとなりました。
そもそも閔妃暗殺や、春生門事件を経て国家元首である高宋が1896年、あろうことかロシア公使館へ逃亡し亡命した(露館播遷)。この時点で世界から朝鮮は自主独立国家として既に認められなくなっていた。
1895年の下関条約により日本のお陰で清から独立してから一年も経たずに朝鮮は主権を放棄した。
亡命先から遠隔統治のようなことをやろうとしても、既にロシアの軟禁状態であり次々とロシアは朝鮮半島の利権を手に入れていくこととなった。高宗が朝鮮に戻り大韓帝国を建国した後もロシアは朝鮮半島利権を得続け、それが原因で起ったのが日露戦争となる。
POINT
李氏朝鮮は清に泣きつき日清戦争の引き金を引き、露館播遷によりロシア利権に侵食され日露戦争に至ります。外交権をはく奪されたことを不服とし密使を送ったのがハーグ密使事件となります。その後日本は朝鮮半島の独立を諦めることになります。
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