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奴婢の割合が人口の40%に及んだ李氏朝鮮 - 日韓併合は2,000年続いた奴婢制度を廃止した

2022-05-26  カテゴリー:李氏朝鮮

奴婢の割合が人口の40%に及んだ李氏朝鮮 - 日韓併合は2,000年続いた奴婢制度を廃止した

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2,000年続いた奴婢制度

韓国の学界では李氏朝鮮時代の人口を1,000万人程度と見た時、大体40%に該当する400万人程度が奴婢だったと推算している。統一新羅時代の695年、西原京(現在の清州付近)の4つの村落を調査した文書では、460人の人口のうち28人が奴婢としたという記録が残っている。比率としては6%余りになる。李氏朝鮮を建国する直前の1391年、李成桂が受けとった封土でも同様の記録が見られる。 そこに住む162人のうち奴婢は約4.3%の7人に過ぎなかった。これが100年後には人口の40%にも膨れ上がる。

高麗時代には両親のうち一人が奴婢であれば子供も奴婢になり、奴婢と両班の養子の結婚自体が違法だった。 奴婢のみの相続であった為、大幅に増加することは無かった。



MEMO

日本では律令制度の終焉により奴婢制度は廃止となっています。時期としては10世紀初頭となります。



奴婢の量産を求めた両班

李氏朝鮮時代になってから高麗時代の制度は徐々に緩んでいき、両班としては奴婢同士を結婚させるのではなく奴婢と養子を結婚させた方が奴婢を増やすことができるとして、積極的に養子と奴婢の婚姻を勧めた。両班はほぼ無給の奴婢を使うことで自らの富を増やすことができたからだ。奴婢は兵役や納税の義務を負わないため、国家としては奴婢が増えるということは良い現象ではない。 その為朝鮮の一部の王は奴婢の数を減らすための政策を行った。

太宗は良人(奴婢以外の階層)の男性と女性奴婢の間に生まれた子供は、いずれも良人の資格を与えるようした。当時、両班の中では女性奴婢を妾として置いた場合が多かったため、このような措置は奴婢を減らし、養子縁組に大きな役割を果たすこととなった。

奴婢を減らす政策に反対した両班

奴婢が減ると両班官僚たちが反発し始め、 彼らは「女性奴婢たちが勝手に良人男性に嫁いで人倫を乱す」という口実を前面に出して良人の資格を与える制度の廃止を要求した。1485年、成宗の時に作られた『経国大典』では、親の一方が奴婢なら子供も奴婢になるということを法で明文化した。 朝鮮の奴婢の数は再び急増することとなる。蔚山部、丹城など一部地域では、奴婢の割合が人口の50~60%に迫り、1663年には漢城部戸籍で73%と記録された。両班は私腹を肥やす為に奴婢を量産し、国はこれ以上奴婢が増えると国益としての税収が減るという綱引きを繰り返していたのだ。朝鮮国内で両班の勢力は強く、国王であっても無視できない存在であった。


甲午改革と日韓併合により奴婢制度は廃止

結果的には、1885年の甲午改革によって名目上奴婢制度は廃止されることとなる。甲午改革とは日清戦争後に朝鮮半島が独立国となる上で日本が要求した諸改革のことである。最終的には1910年の日韓併合以降、戸籍制度の整備や創氏改名により戸籍上の身分記載を廃止し制度的な奴婢制度は終焉することになる。日本統治による近代化により、朝鮮半島に有史以来2,000年続いた奴婢制度は終焉し、人口の40%もの奴婢が解放されることとなる。

日本統治を一体誰が恨んだのだろうか

ここで大いなる疑問が生まれる。国民の半数近くは奴婢から解放され一般人としての権利を得ることとなり、文化的な生活を送るようになった。その人々が日本統治を恨むのだろうか。「自分や家族や将来の子孫を、奴婢の人生から解放した日本を許さない」と・・?両班は確かに奴婢を酷使し私腹を肥やす権利を奪われた。そしてあろうことか、ある日突然それまで奴婢だった人々と同じ階級となったのだ。抗日運動とは日本から権利を奪われ不満を持った人々が主導したことは間違えないはずだ。



POINT

朝鮮半島を日本は植民地化したと韓国は言いますが、日本は40%にも及んだ奴婢を解放しました。朝鮮半島を植民地としていたのは朝鮮の特権階級であった両班です。





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