120年以上前に起きた「日本留学ブーム」その数なんと約2万人!?孫文は辛亥革命に成功する
2024-08-17 カテゴリー:中国クリック応援よろしくお願いします。
100年以上前の留学ブーム
こんにちは。皆さんは、今から100年以上前に日本への留学ブームが起こったことをご存じでしたか?大東亜戦争前、日韓併合前、そして中国で起こる辛亥革命前に起こった東アジアでの動きです。中国では日本留学ブームが、日清戦争の後に生まれました。これは戦争の敗北によって日本の明治維新の成果が明らかなものだったからです。つまり留学の目的は日本の近代化と富国強兵政策を学ぶことでした。光緒帝の下、康有為など中国知識人は「変法自強」の維新運動を実行しましたが、保守勢力の弾庄で挫折します。
その後1905年に科挙制度の廃止、1904年に近代学校制度の創立、1906年に「教育宗旨」の発布、1907年に義務教育の試行、など当時の教育改革は、日本にモデルを求めた改革です。
留学生には名だたるメンバー
1896年に初めて清朝政府から13名の若者が日本留学に派遣されます。東京高等師範学校の塾で3年間日本語と、化学、物理、数学などを勉強しました。辛亥革命の1911年までに約2万人程の留学生が日本に訪れているといいます。辛亥革命を起こした孫文は経緯が少し違い、旧体制転覆の為の、広州蜂起を起こして失敗し、日本に亡命して来ました。その他、政界の著名人には周恩来、李大釗、陳独秀、畝拝、董必武、蒋介石、摩仲性、汪兆銘などが居ます。孫文は1895年に亡命という形で日本に来ています。文化人としては、魯迅、郭沫若、田漢、何香凝などが居ました。
魯迅 Unknown (licenced under CC0 1.0)
日本で有名なのは日中国交正常化時に交渉の中心だった周恩来、国民党軍として日中戦争を戦い、台湾に中華民国を遷都した蒋介石。南京政府を開いた汪兆銘、文学者である魯迅などでしょうか。皮肉なことは、1921年に中国共産党を創設したメンバー13人のうち4人が日本留学組でした。東京大学土木工学科卒業の李漢俊、東京第一高等学校在学中の李達、法政大学卒業の董必武、京都大学へ進学が決まっていた周沸海です。
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朝鮮は二転三転
李氏朝鮮が旧体制下において、中国型近代化を目指す一方で、朝鮮南部で起きた甲午農民戦争をきっかけに、日清戦争が勃発します。日本の勝利によって朝鮮半島は独立国家となります。皮肉にも日本型近代化を求めた金玉均が暗殺されたのは日清戦争が始まるおよそ4カ月前のことでした。あと4ヶ月生き延びていれば、金玉均は朝鮮近代化の中心的な人物になったとも言えます。
朝鮮半島での近代化の動きは実は、中国よりも早かったといえます。1882年に朝鮮で壬午軍乱が起きますが、これは日本型近代化を志向した動きの最初の失敗だったと言えます。それは大きなうねりとはならず李氏朝鮮の旧体制派に潰されます。皮肉にも親中政策によるものでした。壬午軍乱、金玉均が起こした甲申政変の失敗が親中方針を決定づけ、日清戦争へ向かって行きます。
近代化に失敗した朝鮮
一方中国は日清戦争の敗北後、すぐに日本型近代化に向けて政策転換を行ったのです。朝鮮の金玉均は甲申政変失敗以降、日本に亡命していて、上海に渡航した際に朝鮮の旧体制派によって、暗殺されます。朝鮮半島の孫文となるべき人物だったと宮崎滔天は表現しています。宮崎は犬養毅らとともに孫文の辛亥革命を支えた人物です。朝鮮半島は自力近代化に失敗したのです。宮崎滔天や遠山ミツル、犬養毅などのことを見てみると、日本は一足飛びに大東亜戦争に突入した訳ではなく、日本が成功した明治維新、近代化の流れを広げ、アジア各国が自力で近代化に達成することを目指すものでした。
金玉均暗殺 Utagawa Kunimasa V (licenced under CC0 1.0)
いばらの道だった革命
結果的に1911年に孫文は辛亥革命に成功し中華民国を建国しますが、最後の皇帝の、宣統帝の退位の条件に、北洋軍閥の袁世凱を大総統にする交換取引を行ったために、清朝が終焉するものの、清朝の軍人の袁世凱が独裁色を強めることとなりました。そしてこれを打倒する第二革命に突入していきます。抵抗勢力であった北洋軍閥を打倒する北伐を完遂し、蒋介石が国民党の総統になってからも、西洋の中国分割は進みました。孫文の革命の精神とは、日本の維新に学び、共に西洋と対峙し独立を維持するということでしたが、蒋介石は西洋列強との妥協の政策を選びました。日本はこの動きに対して、蒋介石は全く理解していないと評価しています。
南京臨時政府に引き継がれる孫文の革命
中国分割が進む中で日中戦争が勃発します。革命の精神は、日本留学経験のある汪兆銘の南京臨時政府に引き継がれます。孫文の側近であり、大東亜会議に参加した人物です。長い時間をかけて中国は革命に失敗しました。それどころか国共内戦は継続され、孫文の革命はおろか、全く別のイデオロギーを持つ中華人民共和国が誕生することになります。孫文が目指した日本の維新とは、近代化のみならず、アジアの中で富国強兵を達成し西洋の植民地とならず自主独立を守ることにありました。その意味で革命の理念は無くなってしまったと言えます。そして辛亥革命を引き継ぐはずだった国民党政府は日本との戦争に疲弊し、中国共産党に中国大陸を明け渡す結果となってしまいます。
日本の維新の伝播
当時有色人種の国で自力近代化に成功した国は日本だけでした。アジア諸国が近代化を目指すために日本から学ぶということはごく自然なことでした。そしてこの時代の東アジアの動きは、日本の明治維新をアジアの先進的な人々が積極的に学び、自国で旧体制から近代社会に移行させようとした時代でした。
中国は旧体制を転覆させることには成功しましたが、朝鮮半島はできませんでした。この点において中国と朝鮮の決定的な違いとも言えます。清王朝は日清戦争敗北の翌年には政府自らが留学生を日本に送っている一方で、朝鮮は日清戦争後に独立国となったものの、日本が指導する甲午改革を嫌がり旧体制派と改革派は分断していきました。甲午改革は旧体制の身分制度を否定し、
奴婢制度を崩壊させるもので、ヤンバンは自分達の利権を失うも内容でした。結果的に旧体制が維持される淡い期待の為か、朝鮮は、アジア植民地化を目論むロシアに近づき、結果的に朝鮮国内の利権は次々とロシアに売り渡されて行きます。
近隣諸国の失敗で悪化した環境
このように、大東亜戦争について、日本人ですら、日本が無謀な戦争をしたとか、狂ったように攻めに行ったというような認識の人が多いのですが、実際は明治から日本は長い期間を掛けてアジア近代化に協力的に働きかけ、支援し、学ぶ者を受け入れてきました。これは各国が自力近代化を達成し西洋と対峙する国力を持てば、結果的に日本の安全保障となるという考え方です。結果的には朝鮮はまさにロシアに抑えられる寸前となり、中国は西洋に次々と租界を作られ分割されて行きます。結論を言えば、日本に向けた軍艦が出る半島、大陸の港を各国に抑えられたならば、日本の安全保障は壊滅的に包囲される結果となります。いよいよもう駄目だという環境が整いつつあったのです。