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日本統治時代に朝鮮半島に居なかった李承晩-反日国家建国と甦る金九の亡霊

2024-06-03  カテゴリー:韓国

日本統治時代に朝鮮半島に居なかった李承晩-反日国家建国と甦る金九の亡霊

Photo by Unknown author (licensed under CC0 1.0)

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金九という人物

日本であまり紹介されることがありませんが、写真の人物をご存じでしょうか。この人物は金九という名前で、大韓民国臨時政府のメンバーで、日本が敗戦した後に、韓国大統領が誰がなるべきかという中で、後に大統領となる李承晩と争うこととなりました。前の大統領の文在寅大統領と、現在最大野党の党首である李在明は、この金九の思想と大いに関係しているということを今回取り上げてみたいと思います。

日本統治時代を知らない李承晩

大韓民国臨時政府とは、1919年に朝鮮半島で起こった、3.1独立運動に端を発し、上海にて発足されたもので、遠隔地から朝鮮半島内に反日暴動を計画したり、画策したりしていましたが、政府としての実質的な機能は無い、模擬政府のようなものでした。李承晩は臨時政府の設立に関わっていますが、設立翌年に、派閥抗争に敗れ失脚し、ハワイに居を移しています。そもそも李承晩は、大韓帝国の皇帝の、高宗の退位を求める文書の散布に加わり、投獄され、1904年に特赦で釈放された後に、アメリカに亡命し、ハワイに定住しています。1919年に上海の臨時政府樹立には参加しますが、翌年にはハワイに戻っていますので、実は李承晩は日本統治時代を、全くといって良いほど経験しておらず、アメリカからの目線で、日本を見ていたというのが実際となるでしょう。李承晩は終戦後1945年に朝鮮半島に戻っています。

認められなかった臨時政府

さて、金九は「臨時政府主席」の身分での帰国を要望しましたが、臨時政府の正統性はアメリカ政府からも認められず、一般人の身分で、朝鮮半島南部に戻ることを選びます。そして、李承晩が率いる独立促成中央協議会と統合し、大韓独立促成国民会を結成し、副総裁に就任します。つまり、この時点で、1919年の3.1独立運動から始まった臨時政府は、正当性が認められておらず、アメリカによって擁立されていた李承晩が、大韓民国の建国を行う路線が敷かれていました。

感情的な反日

金九は生粋の反日で、1896年には、料理店では注文した順ではなく、年齢がウエの者の注文が優先されると言い、店主が日本人商人・土田譲亮に先に配膳したことに腹を立て、集団で土田を暴行、石と鉄棍棒で撲殺し、金品を奪って、遺体を埋葬せずに、凍った河に捨てたという事件を起こし、投獄され、死刑判決を受けています。その後特赦により減刑されるものの、脱獄を図り、3.1独立運動に参加し、上海で亡命政府のようなものを作ったというのが経緯となっています。伊藤博文を暗殺した安重根の息子の安俊生が、伊藤博文の息子の伊藤文吉の元を訪れ、謝罪を行ったことに腹を立て、中国の蒋介石に、安俊生の殺害依頼を行っています。

相手にされなかった金九の主張

南北朝鮮の分断が決定的になる中、金九は独自の理論を展開し、米ソの影響下ではなく、朝鮮半島が自らの力で統一を果たすという主張を展開し、北の金日成に面会しています。しかし、時世は全くそのような状況にはなく、金日成からは全く相手にされず、アメリカも全く相手にしませんでした。その後、大韓民国設立にあたり、初代大統領を決める南朝鮮での単独選挙に対する反対運動を展開しましたが、1948年8月15日に、大韓民国の建国が宣言され、アメリカにより担がれた李承晩が、初代大統領となり、翌年に金九は自宅にて暗殺されます。ここまでは大まかな大韓民国建国までの李承晩と金九についての経緯です。現在の韓国の憲法の前文には、3.1独立運動で建立された、大韓民国臨時政府の法統を継承すると謳われており、これが法律上で、反日が国是として正当化される根拠となっていますが、これまでの経緯を見るに、大韓民国建国にあたり、臨時政府の正当性は認められなかったという矛盾があることを韓国の人々は全く知らないことでしょう。

韓国の右派と左派

さて、その後大韓民国は李承晩の元、独裁政治が続き、民主化の運動により李承晩政権が倒れるものの、朴正煕による軍事クーデターにより軍事独裁政治となります。その後盧泰愚大統領の時代、1987年6月29日に大統領直接選挙を含む民主化宣言が行われます。このような流れから、韓国の保守とは李承晩の建国から端を発した政治勢力となり、左派とはその逆という性質が在ります。その中で経済政策優先か社会保障優先かという経済的な要素で右と左に分かれている傾向が在ります。その為、左派は共産主義的性質を持ち、北朝鮮とは融和的な政策を行う傾向がありました。憲法上はどちらも反日ですが、実際には李承晩は反日により韓国を建国したという経緯があり、親日勢力を次々と粛清して行きました。

反面、左派は反日ではあるものの、金大中は日本に国賓として訪れており、FIFAワールドカップの共同開催、日韓文化交流の解禁、竹島問題にまつわる改正国際法に則った新しい日韓漁業協定の締結などを行っています。その後盧武鉉元大統領も左派系の大統領として国賓訪問を行っていますが、その後韓国内で反日運動が過熱して行きます。

反日傾向を強める保守勢力

盧武鉉大統領の次に保守系の大統領が二代続きますが、李明博は、通貨危機の際に日韓通貨スワップについて、スワップは余計だったと発言し、麻生元総理を激怒させたと言われていますし、竹島の上陸を大統領の任期中に行っています。慰安婦像が立ち並び、次の朴槿恵元大統領も保守系の大統領ですが、釜山の日本総領事館前に慰安婦像が設置されています。慰安婦像設置が何の躊躇もなく展開され始めたのがこの時代でしょう。これに先立ち日本では、安倍第一次内閣において、慰安婦の強制連行について、軍や官憲によるいわゆる強制連行を直接示すような記述も見当たらなかったとし、河野談話の内容を一部修正する閣議決定をしています。これを元に2015年の慰安婦合意に向かって行く訳です。

金九を敬愛する文在寅

その後、朴槿恵大統領の弾劾から、大統領に就任する文在寅大統領がとても厄介な人物で、これまでの左派勢力とも全く違う主張を持っています。それが金九です。文在寅大統領は最も尊敬する政治家に金九の名を挙げており、就任後2019年には金九記念館の中で国務会議を開くという意味の分からない行動をしているほどです。そして、現在最大野党党首の李在明も、金九を最も尊敬する政治家として名前を挙げています。このように見ると、文在寅大統領時代の理解不能な外交政策が皮肉にも理解可能となってきます。金九とはアメリカを排除し、南北朝鮮の統一を北との交渉で実現しようとした人物でした。文在寅大統領の政策とは米国の影響を朝鮮半島から排除する動きをし続けていました。GSOMIAの破棄の動きも正にその目的と言えます。その上で米朝韓首脳会談を実現したり、突然国連にて朝鮮戦争の終戦を希望する発言を行ったり、李在明に至っては、アメリカのせいで朝鮮が分断されたという、常軌を逸した発言をしています。

李承晩の対抗軸としての金九

つまり、保守に対する対抗軸として、李承晩に対する金九を象徴的に位置付けているのです。そして決定的なのは、それは金九の妄想に過ぎず、アメリカからも、北朝鮮からもまったく相手にされなかった架空の歴史であり、現在も全く同じ結果となっていることは皮肉でしょう。問題は、このような主張に韓国民の半数が賛同していることです。

金九については、上海の臨時政府には全く朝鮮半島についての統治実体がなく、帰国後もその正当性は認められず、北との独自統一路線も完全に誰からも評価されず、実際に政治を行って実績を上げたという事実そのものがありません。その上で、もし金九の時代だったらという、究極のIFを掲げて国民を扇動しているのが、文在寅大統領であり、李在明ということになります。この、金九による架空の歴史を前提とすれば、李承晩による建国自体が成立せず、つまり大韓民国の建国そのものを否定していることにもなります。

戻れない韓国

前回の韓国総選挙で、保守系の与党が大敗しました。この流れで行くと、次の大統領選挙では左派系の大統領となることが確実視されています。日本としては、単に左派系の大統領が誕生するという見方も重要ですが、さらに、戦後作られた日米、日韓の安全保障によって維持されて来た朝鮮半島、東アジアでの安全保障の問題について、根本的な変革を行おうと画策する勢力が政権を取るという理解をする必要が在るでしょう。




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