伊藤博文を暗殺した安重根の息子の安俊生。京城朝鮮ホテルで行われた和解と許せなかった金九という人物
2024-08-18 カテゴリー:韓国クリック応援よろしくお願いします。
博文寺を訪れた人物
伊藤博文については皆さんご存じかとおもいます。伊藤博文は日韓併合前年の1909年10月26日に、ハルビン駅にて暗殺されます。暗殺を実行したのが安重根という人物です。韓国では今でも英雄ですね。今はもう存在しない韓国の博文寺というお寺に、1939年10月15日、ある人物が供養に訪れました。安重根の息子の安俊生です。上海からの朝鮮半島人満船視察団に参加して訪問したのでした。目的は彼の父の安重根が殺害した伊藤博文の供養のためでした。
安重根の息子の供養
供養は11時から始まり伊藤博文の肖像画の横には安重根の位牌も置かれていました。安俊生は、父親の安重根と伊藤博文を供養し、読経をした駒田は、安重根の位牌を彼に手渡し、二人の霊を永遠に追悼するよう諭しました。
その後、安俊生は取材のために訪れた記者に対し言いました。幼い歳で父親を亡くし、30年間祭祀を怠った。今伊藤公の冥福を祈ると同時に、父の位牌を受けられたことを嬉しく思う。
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京城朝鮮ホテルでの和解
翌日16日、安俊生は京城朝鮮ホテルに向かいます。それはある人と会うためでした。その相手とは伊藤文吉、伊藤博文の息子です。伊藤文吉に対して謝罪をしたいという安俊生の申し出に対し、伊藤文吉は次のように言いました。「私たちの父はすでに神となって、仏となって空に帰っていった。」今何を謝る必要があるだろうか。それよりも国のために誠意を尽くそう。
交換供養が行われた
そして翌日の17日伊藤文吉と安俊生は、博文寺を訪れお互いの父に対しての交換供養を行いました。韓国では伊藤博文が征韓論者であったと頑なに信じられています。征韓論とは日本が韓国を征服して統治することです。そうでなければならない理由は何でしょうか。伊藤が朝鮮総督府の統監だったことから、韓国人が伊藤が日韓併合論者だったと誤解しているのだと思われています。しかし伊藤博文は終始日韓併合には反対の立場でした。
伊藤の顔を知らなかった安重根
安重根は伊藤博文の顔も知らないまま、暗殺を行います。これは彼の残した自叙伝にはっきりと、自分は伊藤の顔を知らなかったと記しています。伊藤は当時、もはや総理大臣でも、統監でもありません。朝鮮への融和政策の失敗の責任を取り、辞任をしたのです。その伊藤博文を安重根は、ハルピン駅で、やみくもに発砲し殺害しました。そして安重根はその場で逮捕され、裁判で死刑宣告を受けた後の獄中で、自分は重大な錯誤を犯したと発言します。
怒り狂った金九という人物
1939年に安重根の息子の安俊生は、博文寺にて伊藤の供養を行い、朝鮮ホテルで伊藤の息子の伊藤文吉と面会し、謝罪を行い、和解しました。これを許せなかったのが、独立運動家の金九です。当時金九は抗日勢力の大韓民国臨時政府の重要メンバーであり、翌年の1940年には主席に就任しています。安俊生は上海で薬局を営んでいたのですが、金九は安俊生に、アヘンの売買を行っているとのでっち上げの容疑を着せ、当時中華民国のトップの蒋介石に処刑を依頼しています。相当頭に来たようですが、これはつまりどういうことなのでしょうか。金九は安重根の息子が、父の伊藤博文殺害について謝罪したこと。しかもそれをマスコミの前で話したことに激怒していたようです。安重根は英雄でなければならない。反日独立派の英雄として利用されなければならない。これが独立を目指す勢力の希望でした。
征韓論者でなければならない
つまり彼らにとって伊藤博文は征韓論者であり、和解する対象であってはならないということです。韓国人がどこかで誤解して、伊藤博文が日韓併合を進めたと考えているのではなく、明らかに体制によりそのように捏造されたものなのです。伊藤が併合には反対だったこと。安重根が伊藤の顔さえ知らなかったこと。暗殺は重大な錯誤だったと安重根が言ったこと。遺族がすでに和解した事実などは、韓国内では知られてはならない。そしてこの事実を知っている韓国人は現在でもごく少数と言えるでしょう。安重根を英雄にし続けるために、伊藤博文は、永遠に征韓論者であり、韓国の敵なのです。
2023年1月28日韓国の映画館入場券統合電算網というところの調査では、前年の12月21日に公開された、安重根を題材とした映画の、「英雄」は公開から38日間で300万人を突破したと発表しました。300万人とは韓国人口の約5.8%にあたります。